1839_受難週に天の父に思いを馳せて思ったこと | 三位一体について

三位一体

聖書に出てくる神は唯一の神であるにも関わらず、人知を超えた方法でご自身を現わされました。それは、天の父、御子、聖霊という方法でご自身を啓示されたことです。これはユダヤ教を信仰する人たちには受け入れがたいものだったに違いありません。なぜなら、旧約聖書にはこのように記載されているからです。

申命記 6:4
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

そして、人知を超えた啓示であることを前提とした上で、人間はこれに対して三位一体という聖書には書かれていない言葉で教義を固めました。

主の前に降参

僕は三位一体という啓示に対して、主の前に降参しています。なぜなら、それは人間にとって理解しがたいものだからです。そうして、理解できないからこそ聖霊による啓示が必要だと思わされています。三位一体という教義自体が人を神様の前にへりくださせるのだと思っています。

僕が若かった頃は神様といえばイエス様をすぐにイメージしていました。なぜなら、イエス様がどのようなお方であるかは福音書にはっきりと書かれているからです。そうし、実生活においては聖霊の助けを求めるというような信仰をしていました。

心が苦しくなる

しかし、自分が父になる経験をしてから、天の父の心に思いをはせるようになりました。実際に次男が天に召される経験をしたことも大きいです。

普通、自分の子供が元気に走り回っている様子を見るとほほえましい気分になります。しかし、もし自分の子供が33歳になったら十字架で処刑されるとわかっていたら、その様子を見るにも心が苦しくなるのです。

愛の途方さ

僕は天の父が33年間、イエス様の成長を見る中でずっと心に痛みを覚えておられたことを知ります。さらに、天の父は愛する御子を見捨てなければならなかったということにも想像を絶するほどの痛みを心に覚えます。この心の痛みは言葉では表現できませんし、人間は一切経験することができないものです。しかし、そうであっても、天の父の思いに思いをはせることはできます。

先日、こどもを広場に連れていって遊んでいるのを1時間くらい眺めていました。僕はこの受難週に天の父の思いに思いを馳せながら子供を見ていました。なんと心が痛むのでしょう。心は裂け、締め付けられるのです。天の父の思いを思えば僕なんか地獄に突き落として、愛する子、イエス様を救えばよかったのです。それでも天の父は僕を救いたかったのだと思うとその愛の途方さに圧倒されました。