1835_すべての人が罪の中で悶絶しているわけではない | ある程度徳や品性も先天的に決まっている

どうしようもできない能力の強弱や傾向

人間にはどうあがいても後天的にはどうしようもできない能力の強弱や傾向があります。それは多くの場合、血縁や遺伝によるものです。ある程度までは努力でなんとかできるところもあるかもしれません。

しかし、それはあくまでも適材適所の原則や自分という鍵にあった鍵穴を見つけるといった、ガチっとはまった領域でのみに限定されると思います。そもそも数学が嫌いで、数学のセンスのない人がどれだけ努力してもその領域で何かを成し遂げるということは不可能でしょう。

品性や資質ですら

そして僕はこういった強弱や傾向は必ずしも能力に限定されていないと思うようになりました。つまり、その人の品性や資質ですら、遺伝や血縁によって決定的にある程度までは決まっており、後天的にはどうしようもできないということです。

たとえば聖書の価値観で言えば、こういった徳は非常に重要で、すべての人が追い求めるべきものです。

ヤコブの手紙 3:17
しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

相当程度の徳や品性を備えている人

誤解を与えるような書き方になるかもしれませんが、僕が遅まきながら気づいたことは、すべての人がすべからず罪の中にいて悶絶しているわけではないということです。クリスチャンであろうがなかろうが、人それぞれ、平和、寛容、温順など品性に関しての強弱が違いがあり、すでに相当程度の徳や品性を備えている人が大勢いるということです。実際、僕のまわりに腐るほどいます。

一方、僕は生まれつき人格的にも資質的にも品性もすべて最底辺にいるような人間でした。つまり、相当なハンディーを抱えた状態であり、自分の罪の色がも濃厚であり、それに違和感を感じざるを得なかった、そのような個体であったのだと思います。だからこそ、自らイエス様の救いが必要だと感じるに至ったのだと思います。

なんというみじめな人間

僕は一定時期まで自分がそうなので教会にいる救われたみんなも同じように罪の中で悶絶していてキリストが必要に至ったと思っていました。でも、それはあくまでも主観であり、実情は個別でかなり違うようです。しかし、聖書は罪の中で悶絶していて救われた人を標準としています。

ローマ人への手紙 7:24
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

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