1818_へりくだりとは何か | 苦しみの中で主の前に出るために必要な信仰

へりくだり

キリスト教信仰は「へりくだり」抜きにはありえません。それは「へりくだり」が悔い改め、自己否定、降参など主の前に出るために必要な多くの要素を内包しているからです。だから、すべてのクリスチャンにとってへりくだりはなくてはならないものです。

では、へりくだるとは一体どういった行為でしょうか。新約聖書にはへりくだった人物が多く登場しています。たとえば、ザアカイ、長血の女などはそうです。ある者は悔い改め、ある者は自己否定し、ある者は降参しているのです。

内側から自然と溢れてくるもの

へりくだった人物がイエス様に出会い、さらに主のわざを見たのであれば、「じゃあ、俺もへりくだろ!」となりたくなるものです。僕はそうでした。しかし「へりくだり」はほしいからすぐに手に入るというものではありません。へりくだりはお金を払って買うことも、本を読んで手に入ることもありません。なぜなら、それはその人自身の「あり方」だからです。英語で言えばHavingではなくBeingなのです。

外側に存在しているものを所有するのではなくて、へりくだりは内側から自然と溢れてくるものなのです。では、どうすれば自然と内側から溢れてくるようになるのでしょうか。

痛みが必要

多くの場合、へりくだりには強烈な痛みや苦痛や悲しみを伴います。内側からへりくだりが起こるためには痛みが必要なのです。それはオリーブの実が絞られなければ、油を出さないことと同じです。

ザアカイは自身の身体的特徴に劣等感を持っていました。その劣等感は彼を無慈悲な取税人にしてしまいました。彼が得たものは孤独の苦しみ、悲しみです。長血の女は病の痛みだけではなく、医者に裏切られ全財産を使い果たすという苦しみの中にいました。

四面楚歌、自分にはどうにもできない。しかし、その中にあっても「もし主がおられるのだったら自分は変われるかもしれない」というからし種ほどの信仰があれば、そこから「へりくだり」が生まれます。

藁にもすがる思い

僕自身、高校生の時に主に出会った時、まさにそうでした。自己嫌悪、人に失望、誰も信用できない。しかし、そのような状況でも「もし主がおられるのだったら」という藁にもすがる思いが、僕をへりくだらせました。

そうして、今もそうです。なお、僕はへりくだり抜きに主の前に出ることはできません。僕はすぐに高慢になり「自分でできるもん」と心の中で思ってしまうからこそ、日々、僕に与えられる苦痛や悲しみや痛みは僕にとって必要なものなのです。