「考える」ことが少なくなった
AI利用の弊害として本当に「考える」ことが少なくなったと感じています。以前は答えがほしければGoogle検索でしたが、今はチャットエリアを開いて瞬時に答えを得ることができます。僕は正直に答えると教会の奉仕において、アイディア出でAIを使いたくなることがあります。仕事の一貫でマインドが何かあったらすぐAIになってしまっているのです。
たとえば、教会の子供向けのイベントでつかみを考えるのに「最近の小学生で流行っているものは何か?」とか「ゲームを考えて」などです。それは一見何の問題もないように思います。使い方によっては大きな効果を得ることもできるでしょう。
神様に頼らずにAIに頼る
しかし、僕はこの誘惑に対して断固として「NO」を自分に突き付けています。なぜなら、そんなことをしていたら、神様に頼らなくなってしまうからです。もし、神様に頼らずにAIに頼るようなことをしていたら、そのイベントは普通の世俗のイベントになってしまいます。
教会に関わるすべてのことは霊的なものです。霊的なものである以上、奉仕者の霊的状態は何よりも重要です。たとえ、AIに頼ってうまくいったと思ったとしても、それが霊的かどうかはまた別の話です。なぜなら、子供たちの心に触れ、語ってくださるのは聖霊に他ならないからです。
「考える」という行為の新鮮さ
僕はAIに頼りません。その時に主の前に頼って祈ったり考えたりする必要が出てきます。祈ってアイディアが出る時もあれば、考えて出てくることもあります。御言に関することは祈りによらないとだめだと思います。こと、つかみやゲームに関しては、やはり主に頼りつつ考えるという過程が必要になります。
先日、幅広い年齢のすべての子供が楽しめるつかみは何だろう?そこから聖書の話にもっていくにはどうすればいいだろうか?ということを考えました。その時に、久しぶりに、イエス様と一緒に「考える」という行為の新鮮さを思い出したのです。
空白の時間
思い返してみれば、10代の頃なんかは、考える時間、空白の時間が多かったように思います。平成とはいえ、ここまで時代のスピードは速くありませんでした。当時はYoutubeもSNSもLINEすらありませんでした。確かに1日の中に、空白の時間があったのです。ぼーっとすることもあれば、考えることもったでしょう。
AI利用はタスクをAIに投げることで自分の成果にできますが、肝心の投げた人間は自己能力が肥大しているだけであって、実は考える力などは加速度的に急降下しているように思います。実際AI側の画面には「Thinking…」と表示されていて、AIが考えてくれているんですよね。もし僕に最後の砦である「霊的なこと」がなければとっくに思考停止になっていたと思います。













