1801_見ないで信じる信仰とは何を指すのか | 贋作の逸話から問う本質

忠実に再現した贋作

先日嫁さんとこんな話をしていました。僕が「有名人のサインってもらって何が嬉しいんかな」というと、嫁さんは「嬉しい」と答えます。僕は嫁さんに僕が高校生の頃、有名なプロレスラーのサインを忠実に再現した贋作を作って友達を驚かせていたことを伝えました。結局、偽物でも驚くんだったら、そのサインに何の意味があるのかと。

そんなことを言ったら、嫁さんに「あんたは一回裁かれたほうがいいわ」と言われました。

見ないと信じない

僕はさらに嫁さんに質問しました。それは、嫁さんが好きな岡崎体育のサインを「はい」って僕に渡されたら嬉しい?と。そうすると、その場で書いてもらったものしか嬉しくないと言いました。

当たり前のことを書きますが、サインはやはり本物であるかどうかに価値があるようです。そのサインのデザイン性に価値があるのではありません。本物が直筆で書いた
ところを見ることに価値があるのです。

なぜなら、誰でも自分の目で見ない限りはそのサインが本物かどうか信じないからです。

霊の目で見て信じる

イエス様はこのようにおっしゃいました。「見ないで信じる人は幸いです。」これはトマスに語った言葉であり、肉の目で見ないで信じる人は幸いであるということです。つまり、霊の目で見て信じるのはOKなのです。むしろ、霊の目でイエス様を見ずに信じることはできるのでしょうか。

少なくとも僕はできませんでした。霊の目でイエス様と出会うまでも、聖書のことやイエス様のことも知識では知っていましたが、どこか遠くにいる神様だと思っていたのです。たとえ、聖書にインマヌエルの神、われらと共にいますと書いてあっても、僕にとったら遠くの神にすぎませんでした。

本物の神様

しかし、霊の目が開かれてイエス様と出会った時に、はじめて「これは本物だ。本物の神様だ。そして、イエス様が僕のために十字架にかかられたということも本当だ」と知ることになりました。

サインは本人がその場で直筆でサインしないと本物だと信じられないように、キリスト教信仰には必ず今も生きているイエス様に出会う体験が必須です。むしろ、復活されて、今も生きておられるイエス様と霊的に出会えないほうがおかしいです。

嫁さんと会話しながらそんなことを思いました。