不信仰な内容
先日は極めて不信仰な内容を書いてしまいました。それは礼拝に関する奉仕は肉体が疲れていても霊は恵まれるが会議や事務的な奉仕は霊が恵まれないと書いたからです。その際に、これは僕の信仰の態度が問題であるということも書きました。
しかし、後日、僕は完全に打ちのめされて悔い改めることになりました。確かに僕の信仰態度が間違っていたのです。
先手を打って祈る
先日の土曜日は朝から夕方まで事務的な奉仕がありました。それは印刷の奉仕でした。僕の古い性質である肉は当たり前のように僕にこのように言ってきました。「せっかくの休みなのに、朝から晩までこんなことして残念ですね。」
しかし、僕はそう攻勢をかけられることがわかっていたので、事前に先手を打って祈っていました。それは、情けなくもこのような祈りです。
「不平不安を言わず感謝の心を持って主に仕えることができるように。主に愛によって周りの人に仕えることができるように。」
自分の考えに「No」
ですので、僕の古い性質の肉の声は一切僕に響いてきませんでした。これは主がしてくださったことです。そして印刷している時に自分の言葉が自分に帰ってきました。
「礼拝に関する奉仕は肉体が疲れていても霊は恵まれるが会議や事務的な奉仕は霊が恵まれない」
僕はその時に心の中で過去の自分の考えに「No」と言いました。そして、印刷機が動いているこの最中に主を賛美できると言いました。そうして、印刷している時に僕の心は主を褒め称え主と交わることができたのです。
自分の信仰次第
改めて僕は過去の自分の言葉を悔います。その奉仕が礼拝に関することであれ事務的なことであれ、それを霊的なものにするかどうかはその人にかかっています。むしろ、たとえ、礼拝の奉仕であったとしても礼拝する者の心が整っていなければ、それは霊的ではないものになってしまいます。
そのように教えられた時に僕は何かから解放されたように感じました。なぜなら、それはすべて自分次第だからです。自分が当たる対象物、仕事、奉仕、あるいは取り巻く環境、状況が霊的なもにになるかどうかは自分の信仰次第なのです。
霊的かいなか
今なら僕はこの質問に自信を持ってこたえることができます。
「日々の家事は霊的なものか?」
「日々の仕事は霊的なものか?」
「日々の育児は霊的なものか?」
魂を救ってくださって主との霊的な交わりの中に入れて下さった主を褒め称えます。
ヨハネの第一の手紙 1:3
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。













