自己弁護しているかがわからない
昨日の自己否定に続けます。人間は誰でも自己否定を嫌います。誰でも自分が大切なものです。それは人間の自然な反応であり自分を守るための正しい反応です。だから、人間は自然と自己弁護します。無意識に自分が正しい証拠を見つけて自分は悪くないと結論づけます。
それは、頭がほとんど自動でやってくれるので人は意識しません。しかし、聖書と対峙すれば、いかに自分が自己弁護しているのかが浮き上がってきます。それは律法なしには罪の自覚が生じなかったように、聖書なしでは自分がいかに自己弁護しているかがわからないのと同じです。
自己否定にほかならない
理性で読むならば福音書にあるイエス様の言葉は実行不可能な教えとして虚しく響きます。なぜなら、多くの教えは自己否定を前提にしているからです。イエス様が33年間の生涯で示されたことは自己否定にほかなりません。自分のことよりも天の父のこと、自分のことよりも病人、罪人、孤独な人のことを考えておられたからです。
しかし、それを知ったからとて僕の生き方は何も変わりませんでした。イエス様は確かにすごい。しかし、僕にとってそれが何の意味があるのだろうと思っていました。教えは知っていてもそれを実行する力がないことは目に見えていました。
真剣に祈るまでは
だから、僕は真剣に祈るまでは、クリスチャンとは悪人ではないけれど、まぁそこそこ道徳的にましな生き方をする人くらいにしか思っていなかったのです。しかし、僕が人生に行き詰って、自身が自己嫌悪の極みに達した時にはじめて「クリスチャンの生き方はこんなもんじゃないでしょう!助けてください!あなたが福音書で語られた言葉は僕にとっても空しいものではないでしょう!」という叫びが生まれたのです。
今から思えばこう思います。それは自己嫌悪があったからこそ主を求めることができたということです。もし、自分に満足してたらなら僕は神様やイエス様の十字架の罪の赦しも必要とはしなかったでしょう。
極めて不安定で不安な状態
自己嫌悪は自己否定につながります。そして自己否定によって人は神を求めるようになります。それは自己否定している状態は極めて不安定で不安な状態だからです。神様を求めずにはいられなくなるのです。しかし、その不安定な状態を恐れる必要はありません。なぜなら、神はそのような人にキリストにある義を与えてくださるからです。
僕はいつでも真実な自分の姿が見れるようになりたいと思っています。それは、自己否定すべき自分の憎い側面です。なぜなら、それが僕を神へと導くからです。













