1754_すべてを捧げてないのに「私のすべてを捧げる」と賛美してもいいのか?

私のすべてを捧げる

僕はこのような賛美をするのに引け目を感じる時があります。それは「私のすべてを捧げる」という歌詞がある賛美です。なぜなら、僕は自分自身がすべてを捧げていないことを知っているからです。確かに目に見えるところや今の考えにおいてはそのとおりかもしれません。

しかし、だからといって賛美しないことはありません。霊において信仰において告白して賛美するようにしています。なぜならそうしなければ、僕はいつまでたってもすべてを捧げることはできないからです。

献身を現わす

最近、僕は早朝の時間を主にお捧げしていると書きました。これは僕の主に対する献身を現わしています。朝寝ようと思ったら寝れます。夜だらだら過ごそうと思ったらできます。安きに流れるのは簡単です。

しかし、それでもイエス様が早朝に天の父と交わりを持たれるという模範を示して下さったように僕もイエス様の足跡に従う者になりたいと思っています。そして、何の雑念もない新鮮な状態で、誰も邪魔しない静かな環境で主の前に出て主との交わりに身を投じたいと願っています。

主と共に歩まない生き方

またこのように生きるのは、逆算した時に今のままの生き方では必ず後悔するという確信しかないからです。この地上での人生を終えて主の御元へ行った時に「なんて無駄な時間の使い方をしてしまったんだ」と後悔したくないからです。

無駄な時間の使い方とは何でしょうか?それは主と共に歩まない生き方です。なぜなら、自分のやりたいこと、楽しいこと、自分の利益のため、豊かさのために生きることはイエス様をそっちのけにして生きることだからです。

そんなことないよ

もしかしたら、あるクリスチャンは言うかもしれません。「そんなことないよ。主はいつでも共にいてくださるよ。そんなストイックに生きると律法主義になるよ」と。

しかし、僕はそうは思いません。なぜなら「主と共にいる」というのは自分が積極的に主が行かれるところについていくという行為だからです。羊飼いが行く方向についていく羊と同じだからです。

救われた今は違う

もちろん、救われた当時は主が来てくださいました。一方的に共にいてくださいました。しかし、それは僕たち羊が羊飼いの囲いの中にいなかったからです。だから主ご自身が囲いの外に出て来て共にいてくださったのです。

しかし、救われた今は違います。羊飼いの囲いの中で養われる幸いの中にあるのです。しかし、主がいつも囲いの中にいるわけではありません。主は救われる魂のところへ出て行かれるのです。それについていくために、主と共に生きる生き方をしたいと思っています。

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