宗教上の理由ではない
昨日は忘年会のあと歩いて帰ったという話を書きました。久しぶりに周りが泥酔したり吐いたり寝たりするのを見て僕はやっぱり飲まない選択をしてよかったと思いました。もちろん、人それぞれなので飲もうが飲まないがいいと思います。
しかし、僕は以前も書きましたが飲まないメリットのほうが圧倒的に大きいので飲む選択はしません。それは決して宗教上の理由でもありません。外部が「クリスチャンはお酒を飲んではいけない。飲まないほうがいい。」と言うからではなく、内発的に飲みたいとは思わないのです。
一貫性が崩れる
しかし、僕にはお酒を飲んでいた時期があると告白しなければなりません。僕は母方の家系に似ており、お酒にめっぽう強くお酒に酔っている時間を楽しむことができる体質があります。しかし、それでも飲みたいとは思わないのです。その理由をいくつか書きます。
一つ目は、自分の一貫性が崩れるからです。お酒はもう一人の自分が出るものです。気持ちよくなって普段言えないことが言えたり大胆になれたりもするでしょう。はめをはずしたり面白いことができるかもしれません。それがいわゆる、酒の席です。
しかし僕の考えでは、しらふの時の自分と一貫性をもたせたいと思うのです。だから一貫性を崩す酔った状態は僕が求めるものではありません。むしろ、しらふの状態えあっても高いテンションを維持し、面白いことが言えるようになりたいと思うのです。
朝の清々しさは絶品
次に、確かに飲んでいる間は楽しいですが、翌朝、気持ちよく起きることができません。僕は夜楽しく過ごす事よりも朝を清々しく迎えることを優先したいと思います。先日も朝方帰宅しましたが、数時間寝ればすっきり起きることができました。もしお酒を飲んでいたら起きれたとしても清々しさはなかったと思います。
その時に改めて、朝の清々しさは絶品であり、神様からのプレゼントだとさえ思いました。
聖霊に満たされる喜び
最後は、聖霊に満たされる喜びを知ったからです。祈り、賛美し礼拝する中で、兄弟姉妹との交わりの中で、奉仕する中で、聖霊が自分の中に満ち溢れる時、主ご自身が喜んでくださっていると感じる時、それはこの世界で最も喜びに満ちた美しい時間となります。それと比べたらお酒を飲むのはデメリットでしかないのです。
エペソ人への手紙 5:18-19
酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。













