彼が神に信頼していたから
昨日は自分のCS説教の準備について書きました。今日は先日の説教の準備で教えられたことを書こうと思います。聖書箇所はダニエル書6章でした。ここは非常に有名な箇所でダニエルが信仰のゆえに、ライオンがいる穴に放り込まれるストーリーです。
神の超自然的な介入により、ダニエルは一晩、ライオンがいる穴にいましたが、彼には怪我一つありませんでした。その理由として、聖書には「彼が神に信頼していたからである」とありました。
殺されるかもしれない
僕はこの箇所を準備する中で、ダニエルは自分が殺されるかもしれないとわかってからも、なお、いつもどおり窓を開いて主の前に1日3度の祈りをした時に、どのような祈りをしたのだろうか?と思いました。ダニエルはバビロン捕囚でおそらく10代の時にバビロンに連れてこられたと言われています。
捕囚される側なので命の価値などなかったに等しかったでしょう。多くの場合、労働力に使われたり、こき使われたり、理不尽な対応をされたり、あっけなく殺されるということも少なくなかったと思います。
主が共におられた
しかし、ダニエルには主が共にいてくださいました。そして理解しがたいですが、捕囚先のダレイオス王にさえ重宝されていました。彼は現地の有力な人物よりもさらに王に大切に思われていたのです。これはヨセフの物語を思い出します。すべては主が共におられたからです。
そう思った時に、ダニエルは明日殺されるかもしれないという状況の中できっとこうは祈らなっかったと思ったのです。「主よ、なんでですか?私はあなたに忠実に仕えてきたじゃないですか?なのにライオンに食い殺されるのですか?」
あなたの恵み
むしろ、こう祈ったのではないかと思いました。「あなたがしもべにほどこ施されたすべてのめぐ恵みとまことをわたしはう受けるにた足りないもの者です。あなたの恵みは私に対して十分です。」これは創世記のヤコブの主に対する告白と、パウロに語った主の御言葉を合わせています。
なぜなら、聖書には、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさいとあるからです。偉大な信仰者であるダニエルはきっと聖書の言葉の原則どおりにしただろうと思ったのです。
遠のいのちにまさるものはない
もしかしたら、「ダニエルの祈りがきかれたからダニエルは救われた」というような解説もあるかもしれません。しかし、そうすると、きかれなかった祈りに対しては何のメッセージにもならないでしょう。むしろ、どのような状況にあっても主の恵みは私に対して十分であり、主が与えてくださった永遠のいのちにまさるものはないのだと思わされました。