信仰者として
昨日に続きます。僕はえらそうにも「大切なのは主が共にいてくださる事実ではなくて、あなたが主と共に痛いたいと願っているのか?」と主張してきました。しかし、今僕は主と共にいたくないと思ってしまっているのです。もちろん、主のことは愛しています。主の救いに感謝しています。ただ今は僕のことをそっとしておいてほしいと思っているのです。
信仰者として、「主がすべての主権をもっておられる。だから僕の意見や考えや主張は関係ない。主の御心だけがなるようにと思っている」と思っていました。しかし、実際は、主がされることに対して「もういいですわ」とあきらめに近い心境になってしまっていました。
それはわかっている
頭の中では僕が見ているのは今の一点だけであって主は全体を見渡して計画しておられ、そして主のなさることはすべてその時にかなって美しいと理解しています。事後的に振り返った時に「あぁ主の最善はこれだったのか!」という日が来ることも知っています。またそのようになることも確信しています。
しかし、今はその聖書に対する理解に感情が完全についていっていないのです。もしかしたら、試練や苦難の中にいる人はそうなのかもしれません。僕はこれまでそのような人に御言を語ってきました。しかし、語られたその人たちも「それはわかっているが、今はただ辛い。それは変わらない。」というものだったのではないかと思わされています。
強者の論理
昨日僕は主の恵みからもれてしまっていたと書きました。それは僕が今このような主と積極的に交わりたいと思わない状態、つまり、主をドアの外に締め出している状態でも、確かに主は共にいてくださっているということを教えてもらっているということです。
僕はこれまで、主の救いは完成しているから、あとは人間側の主体性、自主性、能動性こそが重要だと思っていたのです。しかし、実際はそのような意思を働かせることが難しいという状況があるということを知りました。つまり、僕はずっと強者の論理で信仰生活を送っていたのです。だから恵みからもれていたのです。
そっとしておけないんだよ
「そっとしておいてほしい」と思いながらも通勤時間に聖書をぱらぱらと眺めると「あぁこんな状態の僕にも主は語りかけてくださっている」と思いました。普通なら、そっとしてほしいと思っているなら、そうしとけばいいと思うことでしょう。しかし、主は「そっとしておけないんだよ。わたしは共にいるよ。」と語りかけてくださっているのでした。
それは今の僕の状態に依存しません。ただただ主の恵みのほかないのです。