感動しなくなった理由①
最近自分が何事にもほとんど感動しなくなってしまったことに気づきました。昔なら海外の教会で賛美の新曲が出る度に興奮して聞いて大いに感動したものでした。それが今や過去の曲しかり新曲しかり、全然心が動かないのです。教会の曲に限らず、昔は色んな曲を聴いて全身が震えるほどの体験をしていたのですが、それもまったく心が動かなくなってしまったのです。
その理由の一つとして、心が硬化しているのだと思います。純粋に音楽を楽しめるような心の状態になっていないのだと思います。そうなっているのは、仕事や家庭や教会やプライベートなどで何か心がずっと張りつめている状態が続いているからだと思います。僕自身はこれが必ずしも悪いことだは思っていません。人生の一定期間、心に緊張状態があることで人は成長できるからです。
感動しなくなった理由②
次の理由としては、音楽が溢れすぎているということです。今はYoutubeなどでいつでもどこでも音楽にアクセスできます。そういった体験が僕にもたらしたものは、音楽に対する姿勢や音楽の許容量の飽和状態です。タワーレコードでCDを予約して購入し、購入者特典をもらい、スタンプカードを押してもらいます。そして、すぐに黄色い袋からCDを出し開封して手持ちのポータブルCDプレイヤーで聴くあの労力や体験が完全になくなってしまったのです。
便利になった一方で本当に大切な何かを失ったかのようです。自分を楽しませるコンテンツが山ほどあるのはいいことのように思えます。しかし、実体験から言って、コンテンツが多ければ多いほど心が幸福になるわけではないのです。むしろ、数少ないコンテンツを大切に楽しむ心こそが大切なんだと思いました。
そもそも過度な感動は必要か?
最近、心が感動したのは何だろうと思いました。毎週録画しているプロレスは感動とまではいきませんが、すごいな!と息をのんでみることはあります。しかし、心が動かされる、感動するといった体験はここ数年レベルでしていないかもしれません。もちろん、キリストが共にいてくださることや家族がいることによる静かな心の幸福はありますが、昔コンテンツに接して感じたような感動はありません。
もしかしたら、そういった感動は人生には不要なのかもしれません。過去の自分が過度に心を動かされて興奮していただけかもしれないのです。聖書にも世と世の欲とは過ぎ去るとあります。これからは、そういった瞬間的な大きな感動よりも、もっと重心の低い、底流にあるような静かな感動を求めるべきかと思いました。