われは聖霊を信ず
以前このようなことを書いたことがあります。それは使徒信条の「われは聖霊を信ず」と告白していてもその深さや広さにおいては教派、さらには人によって大きくことなるということです。
確かに聖霊という存在は信じています。しかし、信じていることとそれを実体験として経験していることの間には大きな違いがあります。
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注がれた
聖霊は目には見えないですが、霊においては確かに実体をもった存在です。その実体は豊かに体験することができます。なぜなら、天の父から受けてイエス様がそれを豊かに注いでくださっている以上、僕たちの日常にも聖霊は介入されるということです。
使徒行伝 2:33
それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
その介入の中で聖霊の導きや流れを体験することがあります。また聖霊によるバプテスマや聖霊の油注ぎを受けることがあります。さらに聖霊が真理を教えるということもきっと体験するでしょう。
奇跡について
次に、奇跡についても同じことが言える思います。「奇跡を信じる」と告白していてもその深さや広さにおいては教派、人によって大きくことなります。たとえば、癒しに関しては、ある人は風邪くらいの癒しなら現代でも起こると信じます。しかし、ガンや白血病などの大きな病の癒しは現代では限りなく起きにくいと考えます。
また、使徒行伝の時代は死人がよみがえるような奇跡がありましたが、現代においては自然の法則を超越するような奇跡は限りなく起きにくいと考えている人もいるでしょう。それらは終止論者、継続論者として分かれています。
全知全能の神
僕自身は終わったか終わってないかは重要ではないと思っています。なぜなら、全知全能の神はやろうと思えばなんでもすることができるからです。もちろん、聖書に書かれている内容や設定を超える以上のことはないでしょう。神様はご自身の言葉に対して忠実だからです。
じゃあ、聖書は終わったと言っているのか?については解釈がわかれるのでここでは論じません。ただ僕が信じていることは、それが主の御心であり、僕たち人間が神の言を守り、神の御心に沿って求めるならばそれは起こるということです。
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