撮ろう!
先日、息子と二人である娯楽施設に行きました。そこはお金を払えば施設内の遊具がなんでも遊べます。その中にプリクラがあったのですが、息子が「撮ろう!」というので一緒に撮ることになりました。
列をなしているのはママ友の集団ばかりです。僕と息子だけが男のみのグループで少し異質な空気が僕たちの周りに漂っていましたが、鋼のメンタルを発揮して並びきってプリクラを撮りました。
存在しないかわいい
今どきのプリクラは補正アプリ同様にどうにでもできます。撮影後に頬を細くしたり、目を大きくしたり簡単に「この世には決して存在しないかわいい」が作れてしまいます。それは人それぞれでいいのですが、問題はデフォルトで目が加工されてしまうことでした。
僕と息子も案の定、ギャルのような目に加工されてしまいました。おそらくプリクラの醍醐味は自分じゃない自分を撮ることができることなので、これはこれでいいかなと思いました。
目を捉える
僕はそのプリクラを眺めながらこんなことを思いました。それはプリクラの機械が「僕たちの目を捉えてギャルの目にする」という点です。
先日僕は、聖書の言葉は聖霊によって活性化すると書きました。ある人はそれをレーマと呼びます。レーマはいくつかの理由から賛否両論があります。その一つは、レーマ以外の聖書の言葉を軽視していしまうという指摘、そもそも本当に聖霊が働かれた結果レーマの言葉なのか?という点、そして都合よく聖書を読んでしまう危険性などがあげられます。
聖霊を通して働かれる
僕自身もそれら危険性があることを認めています。そうであっても、ロゴスの言葉とレーマの言葉は区別されるべきだと考えています。なぜなら、本当に聖書を読んでいる時、また祈る時に聖霊が御言を捉えて活性化させ語られるという体験が多くあるからです。
聖霊は決して感覚的なものではなく、また五感に依存し主観で存在が決まるものでもなく、御言を通して働かれます。これが、御言を通読する理由であり、御言を暗唱する理由です。もしかしたら、ペンテコステ派はある人たちから聖霊の働きを感覚的にとらえていると思われているかもしれません。
しかし、実際は何よりも聖書の御言に基づいています。そして、聖霊の前にへりくだり、身をゆだね、明け渡し、導きを求めて、聖霊が御言を捉えて語ってくださるように求めています。
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