ありたい姿
誰でもきっと「ありたい姿」と「現実の姿」にギャップを感じているものだと思います。なぜなら、もし「ありたい姿」がなければ、人としての成長がとまってしまうからです。どれだけ素晴らしい教育と血筋を引き継いでいたとしても、生まれながらに「ありたい姿」になっている人はいないと思います。能力にしろ、品性にしろ、体型にしろ、ありたい姿を見ることによってはじめてそれを目指すことができるようになります。
「英語ができるようになりたい」、「プログラミングができるようになりたい」、「スリムな体形になりたい」、「優しい人間になりたい」などの願望は目指すべき姿がわかっているからこそ憧れるものだと思います。
ダイエットグッズのイメージ画像
僕は習慣的にダイエットグッズやトレーニンググッズをよく見ているのですが、概ね写真に写っているのはムキムキの人ばかりです。先日はバランスボールを使っている人が筋骨隆々の外人だったのですが、バランスボールでその体型にはならんやろ!と思いました。
普通に考えて、ダイエットグッズを使う人は肥満の方だと思います。しかし、肥満の人がイメージ写真として使われているのをこれまで一度も見たことがありません。当然のこととして「このグッズを使えばこのイメージ写真のようにありたい体型になりますよ」ということを訴えているためです。このように、人は「ありたい姿」に憧れて行動に移すのです。
ありたい姿を知るだけでは不十分
しかしながら、その「ありたい姿」になれる人はそれほど多くはないように思います。なぜなら、願望はあってもそれを実行に移すには強力なエネルギーが必要だからです。さらに、一時的なエネルギーでは不十分です。長期的に実行に移す力があってこそ、変容が生まれるからです。それは動機やモチベーションと言われるものかもしれません。
キリスト教も同じだと思います。聖書を読んだり、イエス様に出会って、「こうなりたい」と思っても自分にはそれを行う力がありません。罪に打ち勝つ力はイエスの御名にしかないからです。人間に求められるのは恵によって、イエス様を選択し続ける意志だけです。イエス様だけを選択し続けることができれば、変容は始まってくるのだと思います。
仰ぎ見るべきお方
キリスト教では信仰の完成者であり、導き手であるイエス・キリストを「ありたい姿」として目を離さずに生きることを教えています。もちろん、この地上で誰一人として、完璧にイエス・キリストのような人になれた人はいないでしょう。しかし、自分の失敗や弱さばかり見ていては、ありたい姿から遠ざかるばかりです。だからこそ、イエス・キリストから目を離さずに主だけを求めたいと思います。
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
へブル12:1-2