0238_全ての始まりは一匹のネズミだった

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すべての始まりは

ディズニーを創設したウォルトは「我々は決して忘れてはならない。全ての始まりが一匹のネズミだったことを。」と言い残しました。クリスチャンも同じようにこう言うと思います。「我々は決して忘れてはならない。全ての始まりが一人のイエス・キリストだったことを。」

イエス・キリストの誕生は西暦を変えるほどのインパクトがありました。紀元前であるBC(Befor Christ)と紀元後AD(Anno Domini)です。Annno Dominiはラテン語で「主の年」という意味であり、イエス・キリストが地上に来られてから2021年の現在に至るまで主の年が続いています。それは、つまり、イエス・キリストの十字架上での出来事が一過性ではなく、継続的に続いているということの証です。もし、一過性の出来事だったのであれば、もはやAD(主の年)ではなくなり、別の言い方を考えたほうがいいかもしれません。

十字架の効果の継続性

2000年以上も前に、かつ異国人の処刑の出来事が果たして自分の人生にどのような影響をもたらすのか?そう疑問に思うのがごく普通の反応だと思います。聖書に書いてある教えが現在生きる僕たちに影響を与え続けることはわかります。しかし、イエス・キリストの死は僕たちに何をもたらしたのでしょうか。

このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
ローマ 5:18

それは魂の深くで起こる事象で、主観的なものです。ただし、この主観的な出来事は必ず行動へと変容し、客観的にわかるレベルにまでキリストが現わされるのがクリスチャンの生き方です。一流のワインは脳で味わうように、イエス・キリストの恵みのエッセンスは霊で味わわなければなりません。

よく言われるのは、イエス・キリストについて知っている人は多くいるが、イエス・キリストご自身を知っている人は多くはない。つまり、頭で知っているだけでは不十分だということです。牛乳をコップに入れて様々な機器で成分を分析すれば牛乳について知ることはできます。しかし、牛乳を知るには飲むしかありません。そうすれば、牛乳の味を知り、牛乳の栄養を体内に取り込むことができ、牛乳がもっと好きになるのだと思います。

イエス・キリストを味わうために

もし、脳で味わおうとするなら息苦しくなることすらあるでしょう。なぜなら自己中心的な人間には、イエス・キリストの教えは決して守ることができないからです。ですから、イエス・キリストの恵みにすがるほかないのです。

イエス・キリストを味わうのに必要なことは、謙虚な心と霊の目を開いて頂くことだけだと思います。謙虚な心は聖書の言葉を受け入れさせ、悔い改めに導き、キリストの赦しを切実に必要だと感じさせます。そして、神が目を留めてくださって、心に留めてくださって、霊によりイエス・キリストを知ることを体験させてくださるのです。

いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、
その名を聖ととなえられる者がこう言われる、
「わたしは高く、聖なる所に住み、
また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊をいかし、
砕ける者の心をいかす。
イザヤ57:15