1424_旧約聖書は新約聖書よりも厳しい?いやその逆?

恵んでくださるお方を仰ぎ望む

最近は「すべて恵み」ということを教えられている気がします。恵みの中に立ち続けるには二つの側面があると思っています。一つ目は恵んでくださるお方を仰ぎ望むこと。もう一つは聖書の御言を知るということです。

前者について、恵む・恵まないの主権をもっておられるのは主イエス様ご自身です。

わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ。
出エジプト33-19

人間とは誰であっても神様の恵みを受けるに値しないものです。ただ一方的に恵んでくださるから恵みなのです。神様が長子であるエサウよりもヤコブを選んだのは主がそうしたいと思ったからです。そこに人間が不平等だと入る隙はありません。だからこそ、人は主を仰ぎ望むことしかできないと思っているのです。

聖書の御言を知る

二つ目は自分が恵みを受けるに値しない人間であることを教えてくれます。旧約時代における義なる神様の厳しさ、また新約の時代においても、律法の一点一画も廃れることがないという事実は自分を主の前に立つことができない者であることを自覚させてくれます。それは聖書の御言を知らないと自覚することはできません。

旧約聖書では、ナダブとアビフが異火を捧げたため神様に殺されてしまったり、アカンがあかんことをしたので家族もろとも殺されるといった場面が多く登場します。だから一見、旧約聖書の神様は厳しいという印象が強くなります。

新約聖書のほうが厳しい

しかし、僕は実際は新約聖書のほうが厳しい時代だと思っています。なぜなら、新約聖書の時代は旧約聖書に書かれていることの本質を霊的な深い領域で求められる時代だからです。たとえ、誰かを殺さなくても誰かを憎むならそれは既に心で殺人を犯したことと同じだからです。また、たとえ不品行や姦淫の罪を犯していなくても女性を見て心に情欲を抱くならそれでアウトなのです。

そのような知識は自分が主の前に本当にちり灰に過ぎないものであることを教えてくれます。ただイエス様の十字架の血潮によって罪が赦されて、ただ恵みによって神様との深い交わりの中に入らせて頂くことができるのです。

しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし-あなたがたの救われたのは、恵みによるのである。
エペソ人への手紙 2:4-5

新約の方が厳しい時代化もしれませんが、その中にあって恵みの中に生きられる、それが今の時代だと思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)