1412_ペンテコステ派の礼拝と世間一般のライブとは何が違うのか?

ペンテコステ派の礼拝

現代のペンテコステ派の礼拝の見える部分だけにクローズを当てると、世間一般のライブと何が違うのか?という疑問が起こるかもしれません。もちろん、クリスチャンであれば霊的領域をフル開放して礼拝の中で臨在される主を感じることができるかもしれません。

しかし、たとえば、Youtube等で視聴できる海外のいわゆるメガチャーチが行っている礼拝はほとんど著名なミュージシャンのライブの演出と遜色ありません。クオリティーが高いのです。ですので、見えるところだけ見ると何が違うの?という疑問が起こると思うのです。

礼拝する理由は「救われたから」この一点

最近、イザヤ書を読んでいた時にその答えが与えられたと思いました。その箇所はここです。

主よ、あなたはわが神、
わたしはあなたをあがめ、み名をほめたたえる。
あなたはさきに驚くべきみわざを行い、
いにしえから定めた計画を
真実をもって行われたから。
イザヤ書25:1

僕はこれがクリスチャンが礼拝する理由だと思います。イエス様は驚くべき救いの御業を成し遂げてくださいました。だからこそ、贖われた者たちはみな主をあがめ、み名をほめたたえるのです。聖書の神は救いの神である一方で、創造主であり、癒し主であり、様々な側面をもっておられます。しかし、礼拝する理由は「救われたから」この一点に集約されると思うのです。

下なる者が上なる者を賛美する

そして、礼拝とは下なる者が上なる者を賛美することです。人間は誰でも神と比べることすらできないし、神になることもできません。これは誰でも頭ではわかっていることです。しかし、人間は頭ではわかっている愚かなことを簡単にしてしまう者でもあります。聖書ではサタンはその過ちを犯してしまい天から落とされてしまいました。

ペンテコステ派の礼拝の外面だけ見ると、確かにステージには人がいてそれに対して聴衆がいます。一見、向かい合っているように見えます。しかし、実際は二次元ではなくて三次元です。ステージにいる者、聴衆である下なる者たちが上におられる主を賛美している構図が正しいのです。

下なる者として

「頭ではわかっていること愚かなことを簡単にしてしまう」者であることを認めて、主の前に下なる者として膝をかがめ続ける礼拝者でありたいです。

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