1300_僕の焦点を刹那から永遠へ、外面から内面へと向けさせたこと

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聖書を読むこと

聖書を読むことは人生において本当に有益です。有益以外の何物でもありません。メリットはあってもデメリットはありません。効果はありますが、副作用はありません。だから人間にとって聖書を読まない選択肢はないと思います。

聖書は第一に神の愛が明確に書かれているところです。その愛はイエス・キリストの行為によって実行されましたが、それだけにとどまっていません。今なお、聖書を通して愛が語られ続けているのです。

今なお戒めてくれる

僕が聖書を読んでいてよかったと思うことがあります。それは聖書が大人になった僕を今なお戒めてくれるということです。自分が子供であった頃は両親や学校の先生が僕を戒めてくれていました。先生は主に一般的な人が守るべき道徳や勉学について、両親はそれに含めて聖書的な価値観から僕を戒め教育してくれました。

しかし、大人になれば両親からも離れて基本的には好きなように生きることができます。時間もお金も自分のやりたいように使えます。また生き方も法律に抵触さえしなければ自分の好きなようにいきようと思えば生きられます。それがこの世の中の自由です。

この世が与える自由

しかし、聖書が教えているのはキリストにある自由です。自分のやりたいようにやる自由ではありません。この世が与える自由とはただ自由にできていると思っているだけで、その内実はそれに囚われていたり、執着していたり、奴隷状態にあることがほとんどです。

自分がやりたいと思っていることも、実はやりたくはないけれどやらざるを得ない状態になっているということのほうもあると思います。その点、聖書は違います。僕たちが囚われないように束縛されないように執着しないように愛をもって戒めてくれるのです。

酒池肉林、刹那的な楽しみ

もし僕が聖書を読んでいなかったらきっと自分の好きなように生きていたことでしょう。法律に抵触さえしなければ何をしてもいいのですから。欲望の限りを尽くし、酒池肉林、刹那的な楽しみだけを求める生き方をしていたと思います。

法に裁かれなければ何をしてもいいので、心の中のことも気にしなくてよくなります。心で思った様々な悪い思いも野放しにしてもいいのです。心の中で沸き起こる怒りの炎も放置して周りに延焼類焼させてもいいのです。

イエス様の十字架の愛

しかし、聖書はそのようにさせませんでした。僕の焦点を刹那から永遠へ、外面から内面へと向けさせました。そのきっかけはイエス様の十字架の愛以外にありません。僕が変えられたのはイエス様が命を捧げるほどに僕を愛してくださっていることが分かったからです。イエス様の愛がわかって初めて聖書を読みたいと思ったからです。

今もなお完全には程遠いですし、この地上においては完全にはなれません。しかし、どんなことがあっても能動的に主体的に自主的にイエス様と共に生きることだけはあきらめたくないです。そしてもっと主に喜んでいただけるように戒めて頂きたいと思っています。

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