1274_苦難の道を歩むことが目的ではない

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正直、なんで!?

昨日は主の取り扱いを受けるということは「はがされていく」という表現がしっくりくるのではないかと書きました。僕の場合は現在、自身の律法主義的な考えや見栄が剥がされていっています。

もちろん、それらは主の指摘が入るまでは全く意識していないものでした。僕は見栄もないし律法主義ではなくて恵みの中を生きていると思っていました。しかも、比較的主の前にへりくだれているほうだとまで思っていたのです。だからこそ主からそれらを指摘された時に僕は「正直、なんで!?」と思ってしまいました。

律法主義に関して

主から指摘が入った律法主義に関して書いてみたいと思います。僕は聖書も読んでいるし、御言も覚えようとしているし、祈りも定期的にしているし、教会の奉仕もしているし、僕の信仰生活の何が問題なのか?と思っていました。しかし、それは自分がそう思っているだけであって、主の心は全く別のところにあったのです。

正直、まだ絶賛剥がされ中なので、すべてが明らかにはなっていません。しかし、原因となっている自身の問題はいくつかわかっています。その一つは、僕が「行いによって義とされている」とすり替えが行われていたことでした。その気づかないすり替えから僕は自身に対してストイックになりすぎていました。

そしてそのストイックさは生きた信仰というよりも機械的な信仰になっていました。例えば日々聖書の言を何十個も告白するようなプログラムも取り入れていました。もちろん、聖書の御言には力があるので、それに意味がないとは思いません。問題は日々のデボーションの中で愛を基礎とした個人的な神様との交わりができていないことでした。

見栄に関して

次は見栄に関して具体的に書こうと思います。へりくだりとは謙遜とは全く違うものです。また現在の僕の理解によると、へりくだりとは平穏で平安な心でもありません。決してうれしいものではないのです。

へりくだりとは神様の前に自分の肉が砕かれることです。また、自分の汚さが神様の前に顕わにされることです。顕わにされることはとても恥ずかしいことです。自分でも知らなかった自分の肉の性質が顕わにされるので、その恥ずかしさといったら穴があったら入りたくなるようなものです。

もっと主に近づくこと

しかし、主は素晴らしいお方です。なぜなら、主は僕の汚さや恥ずかしさや肉の性質を暴露して辱めるのを目的としているのではなくて、それを僕に自覚させ、十字架の血潮で洗い清めてくださるからです。

主はほむべきかな。なぜなら、苦難の道を歩むことが目的ではないからです。それはあくまでも手段であって、本当の目的は僕自身がもっと聖くなって主に近づくためです。

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