すごい奇跡、しるし、臨在
僕は信仰生活において、よくこのように考えてしまうことがあります。例えばリバイバルにおいては、礼拝に参加しているすべての人が霊的に感じることができる圧倒的な主の臨在があり、しるし、奇跡が起こることによって起こる。また、自分自身においては、祈りの中で主との劇的な体験によって自分が造り変えられる。といったことです。
これらは実際に起こり得ることであり、求めていかないといけないものであると思います。しかし、そういったことばかりを求めていると体験主義になってしまう一面もあります。極端になると、10代の頃の僕がそうでしたが、「感じれたら主が共におられる。感じられないなら主はおられない」とまでになってしまいます。それは非常に危険な信仰態度であり、むしろ信仰心がないことと同じです。
御言に愚直に取り組む
実生活はそれを求める以上に、聖書に書かれており、牧師先生が繰り返し語っておられる御言を愚直に取り組むことのほうが重要です。聖書が繰り返し言っていることや牧師先生が語っていることはほとんど変わりありません。しかし、それを信じて行う人が主の御わざを見るのだと思います。
例えば、「神を第一にしましょう。」はよく語られる言葉です。しかし、それを心に留めて着手して、実行し続けている人だけが神様の御わざを見るのだと思います。
また「世の声にはNOと宣言し、神様の御声、聖書の御言にはYESと言うようにする」という言葉も聞くと簡単に聞こえます。家庭、職場、社会、特に一人でいる時にそれを実行する人が神様の御わざを見る人です。
聖書の言を実行するのは、、、
僕はこれまで、このブログで神様の御言を実行することは容易ではないというスタンスをずっととってきました。それはもちろん投げやりで、「もう無理だ」とあきらめているのではなくて、行いたいけれど行えないという苦悶の状態でした。
そして、それは自身の信仰生活と聖書の御言との矛盾でもありました。しかし、僕はもう難しいとか容易ではないということは言ったり書かないようにしようと思いました。なぜなら、書けば本当に難しくなってしまうからです。
ウルトラCを求めず
「無理だ」「難しい」「できない」と書く前に、「主にはできる」ということを宣言したいと思います。なぜなら、これから日本に起ころうとしているリバイバルは、毎日小さな信仰を働かせることの繰り返しによってつながってくると信じているからです。ウルトラCを求めず、今日も主に従います。