1227_主イエス・キリストの十字架以外に誇とするものは断じてあってはならない

子たちの心を父に向けさせてほしい

先日、僕はブログでバプテスマのヨハネのように花婿の友人でありたいと書きました。そのことについてまた書きたいと思います。

1224_花婿の友人でありたい

先日祈っていて主が教えてくださったことは「子たちの心を父に向けさせてほしい」ということでした。これはCSの奉仕における主からの語りかけでした。

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
マラキ4:5-6

僕はその声を聞いた時にとてもうれしく思いました。なぜなら、僕は長い間救われたにもかかわらず、二心の心で生きてきていたからです。それにもかかわらず、まだ主が語りかけてくださって、主の働きに携わらせて頂けるということがわかったからです。

一度は献身の気持ちがあった

救われた当時、僕は主のために生きたいと決心しました。それは偽りのない本心から出たものであって、フルタイムでこの人生をかけて主に従って主の喜ばれることだけをしたいと思いました。

しかし、様々な試練や惑わしや偽り、さらに自己中心的な力が強くなってくるに及んで、「主のために働くのは割りに合わないよね」とか「主は全能ではあるが、その全能をこの世ではそれほど顕わさないよね」とか、どんどん、すれていくようになりました。

今となってはその原因はすべて自分にあるとわかっていますが、当時は教会や神様や周りのせいにしてしまっていまして、そんなことをしている僕の魂はますますすさんでいく一方でした。

十字架の力

しかし、心の中ではいつも主と共に生きたいという思いと自分のやりたいように生きたいという思いが葛藤していました。そして、僕は長い間、自分の力で「自分のやりたいように生きたい」という思いを無力化しようとしていました。しかし、それはいつも失敗に終わっていました。

ただ、主の十字架が僕の心の中で再び描きだされた時、自分の力ではなく、確かに十字架の力によって古い自分が砕かれるということを経験しました。だから、これからは自分の努力で生きずにこの御言を握って生きようと思います。

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
ガラテヤ6:14

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