1225_2歳の子供がまだ救われていないので焦っている

神の時

今日書くことは以前にもブログで書いたことがある内容なのですが、最近も同様のことを強く思わされているので書こうと思います。これは決して周りや誰かを見てそう思っているのではなく、僕の当事者問題として切実に感じていることであり、自分に鞭を打つために書いています。

1003_なんでも「神の時がある」と言って先延ばしするのはどうなのか?

誤解を招くかもしれませんが、はっきりと書いてしまえば人間が発する「神の時がある」という言葉はほとんどの場合は逃げであって、待っていてもこないということです。おそらく多くの方は違和感や反発を覚えると思います。しかし、本当に何もしないで「神の時がある」と言って待ち続けていても何も起こりません。

それはリバイバルにしろ、個人的な就職や結婚のことにしろ同じです。切実な思いで必死で祈って行動している者にこそ「神の時がある」と思っています。

まだ時間は十分ある?!

なぜそのようなことを思っているかということ、僕は日々心に痛みを覚えているからです。その理由は僕の子供がまだ救われていないからです。僕の子供はまだ2歳ほどです。ある人は、「まだ2歳だから焦る必要はないでしょう。」と思うかもしれません。

あるいは、「救いはもっと大きくなってからわかることだから」と、まだ先のことだからと思うかもしれません。しかし、僕にとっては救われていない状態が長く続いてほしいとは思わないのです。

子供ができる限り早く今も生きておられる主に出会って、自分がいかに愛されている存在であるかを霊的な深い領域で知ってほしいと思っています。

主権は神にあるが

それは僕自身が神様と出会ったのが17歳の時であって、もっと早く出会いたかったと思っているからです。17歳の時に僕が主に出会えたのは両親が祈ってくれていたからだと確信しています。両親の祈りなくして僕に救いはなかったと思っています。

もし僕の両親がいつまでたっても「神の時があるから」と言って何もしなかったら、僕はいつまでたっても救いにあずかることはなかったでしょう。

僕がいつも思っているのは信仰の父であるアブラハムが祈りによって神様の御心を動かしたことです。主権は神にありますが、神の御心に添うた祈りは神の御手を動かすことができるのです。

逃げないように目を覚ます

だから、僕は今日も自分が逃げないように目を覚ますように鞭を打ちます。切実な思いで主に願い求めるものにこそ「神の時がある」と信じます。

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