1107_クリスチャン1世にあって2世にないもの

クリスチャン1世

信仰生活を送る中でふとした時に自分を正しい道に導こうとする力があります。それは両親の信仰です。両親はクリスチャン1世であり、僕のような2世にない信仰を持っています。2世であれば洗礼を受けるとなると家族みんなが喜んでくれますが、1世の場合はほとんどの場合、反対されることが多かったようです。

母の場合は、信仰を持った時、田舎より働きに出ていたのですが、洗礼を受けると両親に伝えると、田舎からお母さん(僕からみたら祖母)がやってきて田舎に帰るように説得されたようです。

信仰を持つときの犠牲

信仰生活においてこのように肉親の情に訴えかけられるとぐっと心が揺らぐものです。僕の母は、心を鬼にするのではなく、心をイエス・キリストに任せて、断固としてイエス・キリストを否定することはできないことを祖母に伝えたそうです。

遠い田舎から連れて帰ってくるように祖父に言われた祖母の心情を思うととても心が痛かったと思います。それでもイエス様を否定することはできなかったのです。

1世にあって2世にないもの

1世にあって2世にないものは何でしょうか?それは誤解を恐れずに言えば、信仰に対する真剣さと犠牲だと思います。昨年は家族で宿泊旅行に行くイベントがあったのですが、母はいつも7時くらいには起床するのですが、8時くらいまで部屋からでてきませんでした。

母は毎朝必ず祈りと御言によってはじめることを常としており、それ以前に朝食を食べることも1日の活動を始めることもしません。たとえそれが旅行先であってもそれを同じようにしていたのです。

信仰の真剣さとは

一方僕は信仰生活を送っているように思いきや、こういった信仰に対する真剣さにかけているとおもうことがあります。朝聖書を読みますがリビングで読むことが多く、そのあと一人で部屋で祈ることもあれば祈らないこともあります。

ようはやっているようで、その日その日の気分で優先順位が変わっているのです。

2世は2世の歩みがある

また母のようにほとんど何の犠牲もなく信仰に入りました。じゃあ今から2世はどうすればいいのでしょうか?多くの1世の方がこのように言うのを聞いたことがあります。

「2世は恵みの中を生きている。」

このようにいうのは、つまり、こういうことかもしれません。1世は出エジプトした世代であり、犠牲を払った世代です。その一方で2世はヨシュアの世代でカナンの地に入ることがゆるされた世代です。

真剣さや犠牲が必要

確かに恵みの世代だと思います。イエス・キリストにあってその恵みを享受することは素晴らしいことですが、それと同時に1世が持っている真剣さや犠牲が僕には必要だと思いました。

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