個人は自由意志をもっている
先日Youtubeで説教を聴いていたら、クリスチャンとして子供をどのように教育するか?について語られていました。聴いていて心にズバズバ刺さる言葉が多くあり、今の時点でこの説教を聴けたことに感謝しました。
クリスチャンの中でもこのような考え方があると思います。それは「個人は自由意志をもっていて信仰もそれぞれの自由意思でもてばいい。だから、こどもに信仰を強制することはできない」というものです。この考え方は正しいように見えます。特に特定の宗教における宗教二世という言葉やその被害を考えるとより一層正しく感じるのです。僕自身それが正しいと思っていた時期がありました。
主に出会ってほしい
しかし、今はそうじゃありません。自分にこどもが与えられてから、この信仰をもってほしいと強く願うようになったのです。それは、僕のこれまでの人生が、イエス様が救ってくださり、共にいてくださったからこそ幸いだったからです。そして、今もこれからもイエス様なしでは生きられないと思っています。
親はこどもとずっといることはできませんが、イエス様なら共にいることができます。そして、子ども自らが主を求めて主に出会ってほしいと毎日祈り強く願っているのです。しかし、祈るだけでは不十分です。なぜなら、自分の信仰が死んでいる、あるいは本物でなければ、日々の生活の中でこどもを主にあって感化することはできないからです。
親の信仰
何よりも大切なのは親がどこででも、誰に対しても一貫しているか?が非常に重要です。たとえ教会や職場での評価が高かったとしても家庭で協力的でなかったり、その言葉や行いに一貫性がないのであれば、こどもはそれを見抜き、信仰が本物かどうかを直感で見抜きます。そして、本物の信仰を実践していない親の信仰には興味を示さないのです。
また普段から家で聖書を読んだり祈ったりしない親から聖書をよく読みよく祈るこどもが育つはずもありません。大切なのは週に1回わずかな時間のCSの時間ではなくて毎日の親の信仰を真似たいと思える環境だと思います。本物の信仰をもつには御言と祈りが不可欠です。
無名の親の信仰教育
聖書には信仰継承に失敗した偉大な人物が多く登場します。アブラハム、エリ、サムエル、ダビデなどはそうです。しかし、Youtubeで牧師先生が語っていたのは聖書には無名の親たちがこどもを偉大な信仰者として育て上げたとあります。
例えば、ダニエル、イザヤ、エレミヤ、テモテなどはその最たるものだと思います。主が家を建てるのでなければ、建てる者の勤労は空しいとあるように、主が子供を育ててくださるのでなければ、育てる者の勤労は空しいと心にとめて、まず自分の信仰生活を改善したいと思います。