民数記
最近は通読で民数記を読んでいました。12月上旬にレビ記を読んでいて学んだことを書きましたが、以前はなかなか読むのが苦痛と感じていた書簡も年を取るにつれてスルメをかむがごとくそのうまみがわかるようになってきた気がしています。今回の民数記も大変おいしく霊的な糧を頂くことができました。
特に印象的であったのが、やはり何度も何度も不平不満を繰り返すイスラエルの民でした。モーセやアロンもミリアムなど指導者ですら失敗なしではイスラエルの民を導くことはできませんでしたが、イスラエルの民の失敗は特に教訓に富んでいるように思います。
なぜ繰り返し不満を言う?
奴隷の状態から自由の身になった彼らは本当に不思議に思うほどに神様の不平不満を言い続けます。水がなくて不平不満を言ったことは1度だけじゃありません。また、キュウリなどの野菜を食べたいと文句を言ったり、肉が食いたいと愚痴をゆったりしました。ついには、エジプトから解放したのは、荒野で我々を滅ぼすためだったのだとまで言うのです。
僕はずっとこの個所を読んでいて、なぜここまで不平不満を言うのだろうと思っていました。僕も不平不満を言わずに信仰生活を送ってきたわけじゃありませんが、きっと彼らほどではないだろうと思っていたのです。
ことの結末を知ってるからに過ぎない
しかし、そう思えるのは、僕がことの結末を知って読んでいるからにすぎないと思いました。おそらく出エジプトしたイスラエルの民からすれば、すぐにでも約束の地に入れると思ったでしょう。それは2、3日と思っていた者もいたかもしれません。またある者は1か月くらいで約束の地に入れると思っていたかもしれません。しかし、荒野の期間は彼らの想定をはるかに超えて長く続いたのです。
もし、自分の思っている期間よりも神の時が長かったとしても神により頼むことができれば、荒野で滅ぼされることもなく、40年も荒野をさまよう羽目にはならなかったはずです。
信頼するとは
そう思うと、とても他人ごとには思えなくなりました。なぜなら、僕自身、自分の時を優先して神の時を待てずに不平不満を言いたくなるようなことがあるからです。祈っている様々なことがありますが、神に信頼できずに「なぜ?なぜ?」というのはイスラエルの民と全く変わらないということを教えられました。
目に見えるところは確かに荒野かもしれません、しかし、主は必ず新しいことをなしてくださるお方です。それは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせるという文字通りの神業です。それをなしてくださる神様だけに信頼して生きたいです。