アブラハムの信仰
先日創世記を読んでいた時にあることを思いました。その箇所はアブラハムが100歳の時に神から授かったひとり子イサクを神に捧げなさいと命令を受ける場面でした。アブラハムは唯一のまことの神には自分のひとり子をも惜しまない信仰がありました。
そして、いよいよイサクに手をかけようとした時にイサクを殺してはならないという命令を受けて、その山に備えてあった子羊を神に前に捧げます。この時のアブラハムの心境に関して、新約聖書にはこのように書かれています。
彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。
へブル11:19
アブラハムは決してこの神が自分からイサクを取り去ることはないと信じていたのです。
ひとり子が神に捧げられる青写真
この出来事は新約聖書に通じる青写真にもなっています。この有名な御言のとおりです。神は僕たち罪びとを愛するゆえに、たった一人の子であるイエス様を惜しむことなく与えてくださいました。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネ3:16
ここからは僕の妄想に過ぎないのですが、思ったことがあるので書こうと思います。イエス様は天の父の御心を行うためにこの地上にこられました。十字架にかかることが自分の使命だと思っておられたと思います。
イエス様の結末は
イエス様はもちろんアブラハムのイサクに関する出来事の結末をご存じでした。つまり、神の命令のとおり、ひとり子が血を流して祭壇に捧げられる直前で、それが中断され別の備えがあったことをです。
しかし、僕たちが知るとおりイエス様の場合はそのようにはいきませんでした。実際に血を流し、十字架に掛けられ贖いの供え物として捧げられてしまったのです。だからこそイエス様はこのように天の父に言ったのではないかと思います。
それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイ27:46
天の父からの拒絶
イエス様は想像を絶する肉体の苦しみと肉体の死を味わわれただけでなく、霊においても死を経験されました。それは天の父との愛の関係の拒絶です。
私たち人間は、真の悔い改めがある以上は神に見捨てられることはありません。神は想像できないほどの愛と慈しみと憐れみと忍耐をもってひとりひとりの人間に心を留めてくださっています。
しかし神との愛の関係がある存在の中で唯一イエス様だけが天の父に見捨てられると経験をされたのです。それほどまでにイエス様は僕たちひとりひとりを愛してくださっているのです。