キリストの似姿
僕はまだまだクリスチャンとしてぺーぺーだし、まだまだその途上のかなり前半にいる身なのですが、これまで以上にできるだけ早くイエス・キリストに似る者となりたいと思うようになりました。もちろん、それは超絶高いハードルを自分に課していることになります。しかし、日々、自分に死に続けることができて、かつキリストに信頼し続けるならば微差の積み重ねでキリストにあってなれると思っています。
なぜそう思うようになったかというと、それ以外にこの地上での大きな目標がないからです。クリスチャンが与えられている、いわゆる、大宣教命令も、キリストの似姿に近づくことができれば、多くの実を結ぶことができるようになるのは火を見るよりも明らかです。
中目標はもちろんある
もちろん、この地上では仕事して社会を構成する一員としてお客様に喜ばれることを目指し、家庭を守り、子供を育てるなどの中項目の目標があります。しかし、これらとて、現状の自分でやるよりも、間違いなく、少しでもキリストの似姿に近づいた状態で取り組めるならば、きっと多くの良質の実を結ぶことができるはずです。
ようはキリストの似姿に近づくということは、表現はいやらしく聞こえますが、非常に波及効果が高いのです。だから、できる限り、早い段階でキリストの似姿に少しでも近づきたいと考えています。
試練の中を通らされる
しかし、そう願うならば、僕にはおそらく、いや必ず試練が降りかかってくるでしょう。なぜなら、人間は自分自身のコントロールや教育や啓発で変われるほど心の柔らかい者じゃないからです。神様から強制的に課題を与えられてそれをクリアしていく過程で、自分に死に、主に完全に明け渡すことを学び、主の愛や寛容さが人生に現れていくのだと思います。
実際、僕が師として仰いでいる牧師先生たちは、絶対誰もがその道を通りたくないと思うほどの道を通ってこられた方ばかりです。主は試練を通して、人を訓練し、主に役立つ僕として成長させてくださるのだと思います。
それでもはやり試練は避けたい…
もちろん、一番いい方法は神様の強制的な試練なしに、自分が変わっていくことです。だから、毎日油断することなく自分の心を守り、主に明け渡し、求めて、成長できるように祈っていきます。