両親の信仰
自分の両親の信仰のことを書いておこうと思います。別に身内を持ち上げたいわけではないのですが、両親は僕にとって信仰の模範者です。小さい時から両親の信仰態度を身近で見ることができたのは僕にとって大きな恵みでした。二人共そろって家族と教会とイエス様と仕事以外には全く興味を示しませんでした。
それは時間やお金を全く自分のために使わずに教会と家族に時間とお金を捧げるような生き方でした。節約家庭でしたが、必要なときには子供に惜しみなく与えてくれました。
色褪せているように見えた
そして、何より勤勉でよく働き、よく祈り、よく聖書を読み、よく讃美をしていました。僕がこどもの頃はそれが当たり前なんだと思っていました。しかし、僕が成長するにつれて、ひねくれさも増していき、両親のそういった信仰は決して自然発生的に当たり前に身につくものではないと感じました。
それは僕自身がそういった生き方を嫌悪していた時期があったからです。さらに僕自分には到底そういった生き方はできないと思っていたからです。僕は何の趣味もなく、自分の時間もなく仕事と教会だけの一見、色褪せたような人生が魅力的に思えなかったのです。
大切なことは一つだけ
しかし、僕自身には到底そういった生き方はできないと思っていても、心の中では僕もそういった生き方がしたいと思うようになりました。それは、大切なことはそう多くないということを年齢を重ねるにつれて体験として知ってきたからだと思います。
実際、この地上での人生は非常に短いと思うようになりました。その時間を自分を楽しませるためだけに過ごすのはとても虚しいと思ったのです。それならば、一見色褪せているように見えるけれども、両親が心にもっている決して奪われることのない喜びや楽しみがほしいと思いました。
キリストを得ることとは
それが今年の目標のテーマにもなっています。
「イエス・キリストにすべての満たしがあるのであれば、この世のものに心が惹かれることはなくなる。」
誰かが僕を見たときに、一見つまんなさそうな人生に見えるけど、なぜか喜びと楽しみに満ちている。つまり、キリストを得ていると思われるような生き方がしたいと思いました。パウロはこのように言っています。
わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。
コリントⅡ6:8-10