御霊によって生きる
昨日は罪の美味しさや楽しさを忘却できるように祈ることを書きました。この祈りをして数ヶ月経過しましたが、この祈りはかなり効いています。実際、これまで関心のあったことへの興味が薄れてきていることを感じています。
それは単発的な自分の変化でもなく、一時的な衝動の減少でもなく、自分の習慣として変わってきていることを感じています。それはたが神様の恵みによって、神様の御霊によって生きることがゆるされているからだと思います。
今年の目標は下記投稿などに記載していますが、これは「イエス・キリストにすべての満たしがあるのであれば、この世のものに心が惹かれることはなくなる。」という状態を目指すものです。
自分が低くなること
僕自身が決してその域に達し得たわけではありません。また、完全に御霊によって生きていつも神の御心のとおりに生きれているわけでもありません。そんな中で僕が感じているのは、「神様の前にいかに自分が低くなるか?」を少しずつ学ばせて頂いているということです。
クリスチャンは常に戦いの中にあります。それは「今すぐ神により頼むか?あとにするか?」の戦いです。今すぐ神様により頼む事ができる人は信仰の勝利が確約されている人です。そして、川の水が上流から下流に流れていくように神の御霊もへりくだる者がいる下流へと流れていくのです。
日々、高ぶりとの戦い
しかし、日常生活のあらゆる局面で「俺が俺が」とか「あの人が悪い」とか不平不満や他者よりも自身の利益を求めるような生き方になると、あっという間に御霊は流れてこなくなります。これは多くのクリスチャンが体験的に知っていることだと思います。
心が高ぶっているときに、神が与えてくださる平安は決してありません。俺が俺がと自分を王座においているときは神の愛は自分の中に決してありません。神様は心から本当に自分を無き者としているもののところに来てくださるお方です。
祈ることしかできない
僕はお調子者ですぐに神様の前に高ぶってしまうので、正直この生き方は容易なものではありません。しかし、できることがあります。それは今すぐに神様に「僕は高ぶり安いものです。助けてください。」と祈ることです。
本当に毎日毎日、この祈りと悔い改めの繰り返しです。しかし、そうすれば御霊が流れてくるのです。この御言にあるように時々刻々と自分の心を守りたいと思います。
油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。
箴言4:23