0865_2日間ほど夜もイライラして寝付けないことがあった

キリストのようになることは良いこと?

キリスト教では主の似姿に変えられていくという御言を信じています。主とはイエス・キリストであり、イエス自身のような者に造り変えられる望みがあるというのです。この御言を聞いた時、もしかしたら多くの人は「イエス様のようになるのか、それは栄えあることだ」と嬉しくなるかもしれません。

しかし、実際、人間が元来持っている肉的な性質からこの御言を見ると、肉的性質はイエス・キリストのようになるのに激しく抵抗するでしょう。なぜなら、イエス様の生き方とは他人に無関心ではなく愛を実践する生き方であり、疲れていてもしんどくても目の前にある人の必要を満たしたいと思う情熱にあふれているからです。それは人間が元来持っている肉的性質が嫌うものです。

キリストの生き方とは

また、キリストの生き方とは自分に死んで人に仕える生き方でもあります。会社では上司、部下、同僚に仕えます。家庭では配偶者、こども、両親に仕えます。教会では兄弟姉妹に仕えます。さらに地域の人々にも仕えます。正直、この生き方は僕にとって相当難しいです。

さらに、自己否定する生き方でもあります。これも並大抵のことではありません。自分が損するようなことがあっても、自分を弁護したくなっても、自分を主張しない生き方です。もちろん、時と場合によっては主張すべき時があるかもしれません。しかし、イエス様の生き方は人にうったえるのではなく、天の父に祈り求める生き方をしていました。つまり、思うところや不平不満などを人に持って行かずに神様のところに持って行く生き方です。

最近の体験

最近僕はとてつもなく自分に嫌悪感を抱いていました。それは、ちょっとした取引先の反応にイラっとしたりすることが増えていたからです。そして、「まぁ向こうが悪いだろう」というので少しきつめのメッセージも送ってしまっていたのです。2日間ほど夜もイライラして寝付けないことがありました。打ち合わせの時には理路整然とこう述べて少しきつめの表現も使おうとか思っていたのです。

しかし、そんなことを思っている自分自身がとてつもなく嫌でした。そんな時、僕ができる祈りは「どうか主の聖霊で満たし、自分を造り変えてください!」という積極的なものではなく「僕は本当に心の汚いものです。どうかゆるしてください。」という消極的なものにすぎませんでした。

主の前に低くいつづけること

しかし、僕が体験したのは、不思議なことに取引先との打ち合わせの時、心が平安であったということです。そして、なんで僕がこんな寛容な態度で話すことができるんだと自分自身で驚いたくらいです。僕は相変わらず心の汚い人間にすぎません。しかし、ただイエス・キリストの恵みによって、その介入によってキリストのご性質を体験させていただけるのだと思いました。

自分はいつまでたっても汚い心をもっているかもしれません。しかし、真にキリストの前に悔い改めて、低くなり続けることこそがキリストの似姿に変えられていく過程なのかと思いました。

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