0740_この世界の片隅でイエス様に出会えたこと

ひねくれた子

僕は幼い頃から心が著しくひねくれていて、高角度で斜め上から見るような子供でした。それは様々な経験を通して、自分を含めてこの世界が歪んでいることを感じていたからだと思います。自己中心的とか偽善とか理不尽とか、結局は表向きだけとかそういったことに対して厭世的になっていたのだと思います。

だから、イエス様にお出会いする17歳になるまでは刹那的、無頼的、厭世的な生き方をしていました。そして、心は硬化して無感覚になり、批判的、不平不満、不満足で満ちていました。それは今では自分のせいだとわかりますが、「当時はこの世界が悪い」と決めつけていました。

救われてからそういったことから解放されたことは事実です。ただ依然と自分とこの世界が歪んでいることに苦しんでいることには変わりはないように思います。

全体を見れない

大学生の時のエピソードを話しましょう。当時は中国の四川省で大地震が起きて大変な状況になっていました。中国語学科である自分たちも何かすべきだと思い、中国人の留学生や中国語学科の学生全体で募金活動をしました。その集まった募金をどのように扱うかについて議論が巻き起こりました。

ゼミの先生は、特別な団体に大学から正式に渡すことを提案しました。そうすることによって、周りからも注目されるし新聞社の取材もあるかもしれないので、特別な団体も大学もWIN-WINだということでした。今の僕でしたら、それが正しいと思えると思います。しかし、当時の僕は全体的に物事を見ることができず、それは偽善だと決めつけて激しくゼミの先生に対して反論しました。

KY資質

僕とすれば、言ってしまえば、人の不幸をチャンスにして善行を働いているというのを周りに見せるためにやっていると思ったからです。確かに事実として、必要なものは困っている人に届くでしょう。しかし、それが目的であるのであれば、別に仰々しく渡す儀式などは不要だと思ったのです。

そんなわざわざ言わなくていいことを歯に衣を着せぬ物言いで言うので周りからは憚れるような存在だったと思います。ようは、KYの人で、イタイ人で、残念な人です。

生きる意味

もし、僕がイエス様に出会っていなかったら、この地上に存在している意味は皆無だったでしょう。だから、今僕が生きている意味があるのは、生きていける力があるのは、この世界の片隅でイエス様に出会えたからにほかなりません。

依然として、自分とこの世界が歪んでいることに苦しんでいることには変わりはないように思います。僕にとっては、その中でイエス様に叫び求めることができることが救いなのです。

おっさん
■この世界の片隅でイエス様に出会えたことほど大きな奇跡はない

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