悔い改め
キリスト教には「悔い改め」という言葉があります。クリスチャンは罪を犯したと感じた時、自責の念に駆られる時、良心が痛む時、神の前に出て悔いて改めをします。人生における最初の悔い改めは救い主イエス・キリストを心に受け入れた時だと思います。自分がこれまで犯してきた罪を神の前に悔い改めるのです。
悔い改めて罪が赦された時にはじめて主との双方向の愛の関係が始まります。
霊的な存在であり、肉体ももっている
しかし、それで万々歳かと思いきや、クリスチャンは大きな恵みを知ると同時に、厳しい現実にも直面することになります。それはキリストは霊であるのに、自分はこの世で霊的な存在であり、かつ、肉体ももっているということです。この肉体はうまく治めないと人間に様々なものをもたらします。
本人の意志や意図に関係なく、環境や状況によって、あるいは様々な刺激によって内部に無分別、無慈悲、不従順、迷い、快楽、情欲、悪意、妬み、憎しみ、高慢、不平不満などがもたらされてしまうのです。
たとえ、キリストの恵みにより、死んでいた霊が生き返ったとしても、肉体という罪を犯す可能性があるものをもちながら生きなければなりません。その厳しい現実にパウロはこのように嘆いています。
わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。
1:23-24
肉から自由になる
しかし、キリストの救いは厳しい現実を突きつけて終わりじゃありません。「あーもうだめだ。僕は罪人だ。結局は人は人だ。」と嘆くために救われたわけではありません。キリストの救いは人が自由を得るためです。つまり、無分別、無慈悲、不従順、迷い、快楽、情欲、悪意、妬み、憎しみ、高慢、不平不満から自由になることです。
僕が今求められていることは、「悔いる」だけじゃなくて、「改める」ことです。日々、気をつけていても聖書の教えの通りには歩めていません。聖書の御言全体である以前に、ある特定の御言が実践できるように打率を上げるように奮闘しているくらいのレベルです。
悔いて改める
自分を見ていても「悔いる」だけでは、自分の行動は全く変わらないことを痛感しています。結局はまた同じ罪を犯すだけです。しかし、悔いて改めるならば、キリストのほうに方向が変わり、自分の志向から力の向きが変わります。キリストの方を向いたならば、あとは一歩踏み出すだけです。
神の恵みによってキリストを選択し続けられるよう祈ります。