0657_誰でも信仰心はある

信仰とは?

聖書には「信じる」や「信仰」といった言葉が多く出てきます。その理由としては、キリスト教はイエス・キリストを信じることによって救われるという教義があるからだと思います。もしかしたら、ある人は信仰していることを何か特別のことのように思うかもしれません。「信仰が篤いですね」とか「熱心に信仰していますね」とか耳にすることがあります。

しかし、別に「信仰」というものはキリスト教やその他宗教に限定されるものではありません。「宗教は俺には関係ない」と思っている人も必ず何かを信仰しているのです。多くの人は自分自身や所属する企業を信じているかもしれません。

何を信じるか?

頼りになるものの中で一番優秀なものは「お金」かもしれません。とりあえず、「お金」さえあれば何とかなることは多いです。しかし、お金ですらハイパーインフレがきたら、ただの紙くずになってしまいます。そのような状況で分散投資していて、生き残れる人は一握りの人だけだと思います。

次に頼りになるものは、「自分」かもしれません。自分自身だけが自分を裏切らないと思われるからです。しかし、自分が積み上げてきたキャリアやスキルも健康を害すると一気に失われてしまいます。健康があっての自分自身なのです。

見えないものを信じる

このように、宗教を信じていない人でも必ず信仰をもっています。それが見えるものなのか、見えないものなのかの違いだけです。一つ目の問題として、見えないものを信じるのは難しいということです。だから信じる人は少ないのです。見えるほうを信じるほうが楽なのです。

イエス様は「見ないで信じる人は幸いです。」と言いました。キリスト教に限らず、宗教を信じている人は見えるものがすべてでないと信じています。むしろ、見えるものは頼りないものであり、朽ちるものであると考えています。

見えないものを信じ続ける

次の問題は見えないものを信じ続けることも難しいということです。もし、心から信じていないなら、またまともな精神で信じられていないなら、それは妄想、妄信と言われるでしょう。しかし、どんなことが起きても信じ続けられるのが本物の信仰です。

もし、イエス・キリストが2000年前に死んでいたなら、キリスト教徒はすべて妄信している集団です。しかし、今もイエス・キリストが生きておられて、生きておられるイエス・キリストを体験するからこそ、信じ続けることができるのです。

イエス・キリストは人格を持っておられる愛のあるお方です。もし、その愛に触れられるならば、たとえ見えなくてもこの道が本物だと信じるきっかけになるのだと思います。

おっさん
■たとえ見えなくてもキリストの愛に触れられるなら、見えないものを信じることができるようになる

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