刺激と反応の考え方
刺激と反応の間には空間があると言われています。例えば、外部環境からどのような刺激がやってきても、それに対する反応は自分の自由意思によって選択することができるということです。
例えば、理不尽なことや辛く悲しい気持ちにさせるような刺激が自分に与えられたとします。ごく一般的な通常の反応だったら、そこで嫌になったり悲しむことになるのですが、刺激と反応の間にある空間で、自分の意志で嫌にならない、悲しまない選択ができるというのです。
キリストのように生きることの難しさ
僕はクリスチャンだから、キリストのように生きなければなりません。それは聖書に書かれている非常に厳しい要求です。自分を憎む者のために祈り、自分に敵対する者を愛するということは僕自身には到底できないことです。
もちろん、時には刺激に対して本能的に反応するのではなくて、聖書の言葉に準じた反応を選択することもあります。しかし、いかんせん打率が低すぎます。ほとんどの場合、実際にそうしたいと願っていても、困難な状況に陥った時に、つまり、刺激があった時に、腹が立つとか愛せないという反応をしてしまうことが多くあります。
一つの仮説
一つの仮説として、聖霊に満たされ続けていれば、常にキリストのように生きることができると考えています。つまり、どのような刺激であってもキリストのような反応ができる状態になるというものです。それは一回一回の刺激を自覚して、自分の意志で反応を選ぶというものではなく、キリストがご自身が心の中におられるので、ありのままで聖書に準じた反応ができるのです。
しかし、自分を見ると、そういった状態には到底至っておらず、打率が低いなりに時々聖書の価値観に準じた反応がかろうじてできているというものです。
2つを信じる
他人のことをとやかく言うつもりもありませんが、周りのクリスチャンを見ていても、やはり人間なので、人間的な反応にならざるを得ないというのを感じます。どれだけ信仰歴が長くても、どれだけ良い神学校を卒業して品性が練られている人でも、人間的な反応は避けられないのかなと思ったりはしてしまいます。
しかし、僕は二つの仮説を信じようと思います。一つ目は、それは聖霊に満たされ続けていれば常にキリストのように生きることができるということ。二つ目は、たとえ、今はそのような状態じゃなくても一つ目の状態を目指して、自分の自由意思で1回1回、神様により頼みつつ反応していく生き方です。
そうすれば、打率も上がっていって、主と同じ姿に変えられる栄光にあずかれるのではないかと思っています。