0192_奉仕とは「お・も・て・な・し」

ご奉仕ではなく過奉仕になる危険性

特に教会用語ではないですが、教会ではよく奉仕という言葉が使われます。掃除の奉仕、奏楽の奉仕など、それぞれに奉仕表なるものがあったりします。イエス・キリストによって魂が救われ、召された者たちが教会に集まり、そこで神様に仕えるための奉仕です。それぞれに神様から賜っている才能があり、役割があり、それによって、それぞれに神様に仕える場が与えられ、教会が建てあげられるのだと思います。

かつての僕は、この奉仕を非常に悪い意味で解釈していたように思います。というのも、お願いされた奉仕は断らないというスタンスでやっていたところ、奉仕だらけになってしまい、一週間のうちに何回も教会に行き、土日は朝から晩まで教会という生活をしていました。確かに奉仕をしている充実感はありますが、その充実感の中身は、人からのほまれであったり、評価であったり、とうてい、神様への奉仕から与えられる祝福からは程遠いものでした。その時、ご奉仕のことを過奉仕と言っていて、疲弊していたのを覚えています。

聖書にかいてあること

人から評価を受けたいということが充実の目的になってしまうと、結果は、評価を受けれなかった時の失望、教会内での競争、そねみ、批判に繋がり、魂は最悪の状態になることでしょう。イエス・キリストはこのようにおっしゃっています。

主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
ルカ10:41-42(口語訳)

よく「忙」という感じは、「心が亡くなる」と言いますが、目的からそれた奉仕により、思い煩う危険性があります。イエス・キリストがはっきりと言われたのは、「無くてならぬものは多くはない」ということです。そして、それはマリアが選んだもの、つまり、「主の御言」を聴くというものでした。それは誰も取り去ってはいけないものともおっしゃっています。

奉仕に疲れた、今日は奉仕に行きたい、という思いがやってきた時は、実体験からも5W1Hの中の下記だけを思い巡らしたほうがいいと思っています。

  • 誰に奉仕するのか?
  • なぜ奉仕をするのか?

奉仕とはつまり

奉仕とは、「主に仕えること」です。その態度は、バプテスマのヨハネから学ぶべきであり、彼は「私は屈んでその方の靴紐を解く値打ちもない」と言いました。つまり、イエス・キリストの奴隷としての価値もないと言っているのです。僕はいつしか、奉仕が習慣になり、教会のためにやってあげているというような気持ちになったことがありました。それは、おごりであり、高ぶりであり、大いなる罪のほかでもありません。

罪を許された者が奴隷以下の立場で神様に仕えさせていただけること。そして、より日本語的に言えば、「おもてなし」になると思います。英語ではServiceですが、神に仕え、教会に来る人達が神様に出会えるようにおもてなしをする、その心が大切なんだと思います。

かつてのは私は、ご奉仕を過奉仕と言ったりしていましたが、みなさんはどのように捉えているでしょうか?もし、おもてなしを強制労働や無償労働と捉えて神様につかえているなら、下記御言を心に留めて静まり、初心の恵みに立ち返るのがいいかもしれません。

主は答えて言われた、「○○よ、○○よ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
ルカ10:41-42(口語訳)