光なるお方
ヨハネによる福音書の冒頭にはこのように記載されています。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ヨハネ1:1-5
イエス・キリストご自身が命であり、人類の光であったと書いてあり、さらに闇は光に勝つことがなかったと明確に記載されています。さらに旧約聖書のイザヤ書にもこのように記載されています。
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。
暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
イザヤ9:2
暗闇は色々なところにあります。心を見れば罪深い真っ黒な心。外に目を向ければ不正や戦争などの真っ黒な世界。魂を見れば暗闇の中で、何のために生きていいのかわからないような状態です。
光に照らされる時
キリストは信じる者に圧倒的な光を照らしてくださいます。霊におけるレイヤーで体験できる罪が確かに赦されたという確信と神との関係が改善され生きる目的をはっきりとさせてくださいました。
しかしながら、光あるところに影があるのも事実です。イエス・キリストの光は自分自身を照らしてくださいます。照らされた時にイエス様のほうを見ているならば、影は後ろにできるので気になりません。しかし、もしイエス様の方ではなく後ろを向くのであれば、強烈に照らされた自分自身の暗い影が目に入ります。
照らされた後に
もし、イエス様の光に照らされたのちに、すっぽむいて、自分の力で生きようとするならばきっと自分の影の暗闇を見ることになるでしょう。そうなると、自分の罪ばかりに目がいき、自分の弱さに打ちひしがれ、自己嫌悪に陥るかもしれません。しかし、もし、罪を悔改めて、再度180度向きを変えるならば、自分の影は目に入らないどころか、イエス様の栄光を拝することができるようになります。
僕自身にはすぐに自分の力で生きていけると思ってしまう高慢さがあるのを知っています。だから、少しづつ、イエス様を向いていた方向から最初は20度、次は40度、そして次第に180度向きを変えてしまって自分の影ばかりをみてしまう事があります。
だからこそ、この御言で自分の力は無益であることを認識して歩みたいと思います。
すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
ゼカリヤ書4:6