祈り込む時
これまでの人生において重要な意思決定には必ず祈りの時間がありました。教会での祈り込み、一人ので祈りこみ、時には断食祈祷もしたりました。それは神様からの言葉がほしかったからです。さらに自分の考えではなく神様の御心がなるように祈るためです。
なぜなら、往々にして、神様の御心がなるようにと祈っていながら、実は自分の気持を優先していたり、時には自分の中で答えありきで祈ることがあるからです。なので、まずはそういった自己中心的な低いレイヤーから上のレイヤーに行かなければなりません。それは自分を捨てる祈りです。
祈りの過程で
時には厳しい判断を迫られることもあります。心が傷つくときもあります。また、実際に自分の思いを優先していないということを行動に移す必要に迫られることもあります。その時は、きっと悲しいでしょう。きっと辛いでしょう。時には孤独に感じるかもしれません。
しかし、神様はやみくもに僕たちを苦しめるため、嫌がらせのためにそうされているのではなく、恵みの道を歩んでほしいと強く願っておられるからです。聖書にはこのように書いてあります。
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ55:8-9
祈りを通して
進路のことは半年くらい祈りました。会社を辞めて中国に行くときは1年くらい祈りました。結婚のことは3年くらい祈りました。何をどう行動しても道が開けずに八方塞がりだと感じることありました。しかし、それは僕の心の中にある不純物が燃やされて、金屑が取り除かれて、いよいよ精錬された金のような混じりけのない信仰を持つに至るためだったのです。
きっと、これからも自分を捨て続ける決断を迫られる度に悲しくなったり、辛くなったり、心折れたり、打しおれたりすると思います。しかし、神様は良いお方であり続けます。素晴らしいお方で賛美をふさわしいお方であり続けます。
今ある状況は神様がゆるされたからだと信じることができます。たとえ、自分に弱さを覚えることがあっても、そのときにきっと神様の強さをより一層知ることができると信じます。
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
ローマ5:3-4