自分を捧げる
聖書が一貫して主張している原則の一つに「捧げる」というものがあります。旧約聖書や新約聖書に登場する多くの人が唯一のまことの神に捧げものをしています。聖書に登場する多くの人は、自分自身を捧げています。それまでしていた仕事を捨てて、主に仕える者としてフルタイムの働きをした人がほとんどです。その道は決して容易ではなく、人間的に見れば損をしたり、馬鹿を見るような生き方だったかもしれません。
しかし、彼らは主に従って、見えないものを見えるように生きて、永遠の故郷を見ていたと書いてあります。聖書にはこのように記載されています。
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
へブル11:13-16
最も大切なものを捧げる
自分自身を捧げたわけではなく、自分よりも大切なものを捧げた人たちもいます。例えば、アブラハムは老齢でようやく奇跡により授かった一人子イサクを主に捧げるように命じられてそのとおり行います。また、ハンナも不妊の女性でありましたが、主に祈り求めて、奇跡により男の子を授かりました。彼女は、祈り求めた時にこのように祈っています。
そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。
サムエル記上1:11
彼女は出産後、大喜びで子供との日々を楽しんだわけではなく、主に誓願を立てたとおりに、乳離れしてすぐに主に捧げたのです。主が与えてくださった恵みは確かに受け取ったので、手のひらを変えて、子どもと一緒に生活する楽しみを選ぶこともできたはずです。しかし、彼女は子供の成長を見て楽しむよりも、子どもを離れたところに住ませて主に仕えるしもべとすることを選んだのです。
捧げられたものは
主に捧げるものは、人間的に見れば、もれなく痛みが伴うものでした。その痛みは身体的なもの、精神的なもの、時には霊的な痛みが伴うものであり、その捧げ物は容易ではなかったことがわかります。しかし、その捧げものは虚しく地に落ちたわけではなく、彼ら彼女はもっと多くの祝福を主から頂いてます。
アブラハムはイサクを生きたまま返して頂き、信仰の父と呼ばれました。ハンナはその後、子宝に恵まれ、サムエルは偉大な預言者として、イスラエルの暗黒時代に光り輝くともしびとなりました。イエス様もご自身を捧げられましたが、贖罪の道を開き、栄光を受けられました。
自分も同じように
主に捧げられたものは、虚しく地に落ちません。死んだようなからっからの種であっても、地に落ちて無駄になったように思えても、主の恵みの雨が降るならば、大地に根を張り、芽を出し、周りに大きな祝福をもたらすほどの大木になります。
僕には今、主に捧げられていないものがあります。だから、信仰をもって、主に捧げられるように祈りたいと思わされています。
■しかし捧げたならば、主は想像もしなかったことを成し遂げてくださるだろう