自分を否定されたと思うこと
自分を見てていやだな~と思うことがあります。デザインをして社内でレビューをしてもらうと、デザインを否定されているわけではないのですが、やんわり、こっちよりにしたほうがいいというような感じになることがあります。正直、デザイン段階での変更はだいぶ楽なので、スケジュールに影響が出ない範囲では今ゆってくれたほうがありがたいです。
しかし、合理的に理性でもってして、頭でそのように理解できていたとしても、自分の中のどこかで自分が否定された気になってしまう時があります。決してそんなことはないのはわかっているにもかかわらずです。それが自分の中でいやだな~と思っています。
別にこだわる理由もないようなもの
もしかしたら、自分が生み出したものだから、そのデザインを我が子のようにでも思っているのでしょうか。我が子を否定されたとでも思っているのでしょうか。
デザインも別に無から有を生み出したようなものでもありません。独創的なデザインを考え抜いたわけでもありません。数日で作ったデザインです。今まで見てきたデザインを参考にしながら、先人の土台を拝借して作っているだけなので、なにもクリエーティブでもありません。それでも、自分を否定されたような気持になるのは、それに投入した時間に比例するのかもしれません。
自分の手にかかったものは自分のようなもの
例えば、ある人があるプロジェクトのリーダをしていて、そのプロジェクトを廃棄することになった場合のその人の気持ちに近いのかもしれません。そのプロジェクトにかかわっていた期間が長ければ長いほど、止めることになった時のショックは大きいと思います。往々にして、そのプロジェクトに思入れがある人やコミットした期間が長い人は簡単にやめるという決断はできないと思います。
自分が作り出したものやプロジェクトだけでなく、自分のやり方や考えさえも、自分自身としてみなして考えてしまうのかもしれません。僕は自己中心的なので、そんな自分がすごく嫌いです。自分を否定されているわけではないのに、自分の手にかかったものを否定されるくらい何とも思うなよ!と思うのです。
自分を治めることができる人
どれだけ合理的に理性的に自分を納得させようとしても、感情を治めるのは容易にいかないものだなぁと思います。自分で自身を完全に制御できる人はいないと思います。もしできていると思っているなら、それは環境に守られているだけです。衣食住に困るような状況になったとしても、身体的な自由を失ったとしても、精神的に破滅するようなことがあっても、自分を制御できる人などいないのだと思っています。
本当にどんなことがあっても、自分を制御できるように聖霊に満たされて生きていきたいです。
■自己中心的な生き方を改めて神中心の生き方をすれば否定されても何とも思わなくなるだろう