0796_人生全体として遅く無駄に生きるのはいいこと

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効率的、合理的

中国から帰国した29歳から34歳くらいまでは徹底的に合理的に生きることを心がけていました。なぜなら僕は26歳の時点で、一度日本社会のレールから外れてしまっていたので、そういう生き方でないとリカバリーがきかないと思っていたからです。とりあえず、29歳の時に時給800円でアルバイトとして入った会社で頑張るしかなかったのです。当時は寝る以外の時間は仕事と勉強で、週末も遊びに行くことをせず、教会の奉仕もかなりおろさせていただきました。

というのも、とても当たり前のことなのですが、信仰があっても教会にコミットしているだけでは食べていけません。自分の人生なので自分で最善を尽くす必要があります。選択と集中で、当時は仕事とそれに関する勉強にすべてのエネルギーを注ぐことしか考えていませんでした。

いつか体を壊す

今は30代後半になりリカバリーも効いたので割と時間的にゆとりのある生活ができるようになりました。今だったらわかるのですが、無駄のない合理的な生活をずっと続けていたらきっと体を壊していただろうと思います。一見、効率的、合理的、無駄がないという生き方は理に適っているように見えますが、実は人間はそもそも不合理な生き物であるから、合理的な生き方を徹底すると体に支障をきたすものなのです。

たとえ、どれだけ合理的に生きようと思っていても、人間には感情があるので、往々にして不合理な判断をしてしまうものです。だからこそ、何もしない時間やゆっくりとした時間や一見無駄だと思われるような時間が人間の成長に必要であり、それが人生を豊かにするのだと思いました。

大きな変化

ここ数年で僕には大きな変化がありました。まず、結婚によって血の繋がっていない人との共同生活が始まり、子どもが与えられました。そこで大きな価値観の変化が訪れました。それは「自分を捨てて奥さんと子供に仕える生き方」です。まだまだ、その訓練の途上にありますが、僕の内なる抵抗感はだいぶ弱まってきました。

仕えるということはつまり、僕の時間を奥さんと子供に捧げるということです。自分がこれまで大切にしていた勉強の時間や映画を観たりする時間や音楽制作は完全に封印されました。そんなことよりも家事や育児にコミットするという重要な働きが与えられたからです。

学んだこと

しかしながら、不思議なことに家族に仕えることによって、すべての歯車がうまく回り出して、仕事でも教会でもプライベートでも好循環がうまれているということです。最も大切なのは家庭なんだと合点がいきました。もちろん、その家庭には主がおられるからこそというのは言うまでもありません。

確かに社会では、早く合理的にやることも見逃すことはできませんが、人生全体として遅く無駄に生きるのはいいことだと思いました。

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