他人にはある
「隣の芝生は青く見える」という言葉があります。コトバンクにはこのように説明されています。
何でも他人のものはよく見えるものである。
確かに誰かが持っているものは、自分が持っている物より良く見えたりする場合が多いように思います。物質的なものもありますが、能力や資質面でも感じたりすることがあるかもしれません。
例えば、能力面でいえば、他人の学歴がよく見えるかもしれません。僕の場合は英語が話せる人を羨ましく思うことがありますし、エンジニアなんかは魔法使いのようなすごさを感じてしまいます。また、資質面でも、他人の器の大きさや、責任感の大きさ、忍耐力などに憧れを感じることがあるかもしれません。
自分にはない
僕の場合は、みんなには当たり前にできているようなことが、自分には全くできないことが多くありました。小学1年生の頃から既に夏休みに補習で学校に呼び出されていたくらいなので、かなり早い段階で厭世的な気持ちが心に沸き起こっていました。社会人になってからも、相変わらず、能力面・資質面での欠陥のため、人事評価でほとんどすべての項目でDの評価が下されるほどの欠陥ぶりでした。
「隣の芝生は青く見える」のに、自分の芝は青くないどころか、完全に枯れ果てて土がそのままむき出しのような状態なのです。なんとか、ここまで生きてこられているのは、ただただ、主イエス・キリストの憐れみによるほかありません。幸いなことに聖書にはこのような言葉があります。主はカラッカラの砂漠にさえも川を流れさせることができるのです。
見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、
あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、
さばくに川を流れさせる。
イザヤ43:19
さらに、このような言葉もあります。この言葉は、預言者イザヤによって、イエス・キリストの誕生が予言されているところですが、切り倒されてしまった株に生命を宿らせ、芽を出させ、さらに実を結ぶまでに成長させてくださるのです。
エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。
イザヤ11:1-2
他人を見ないで主を見上げる
隣の芝は青く見えて、自分の庭には芝はおろか、乾ききった土が丸出しの状態で何も人に誇れるところはないかもしれません。それでも主は、その地に川を流れさせ、命を吹き込むことができるお方です。ですので、他の人の持っているものにうらやむのではなく、主を見上げて、主がなしてくださることに期待して、生きていきたいと思います。