社会不適合者
これまで、ずっと「生きててすいません」という気持ちで生きてきています。幼稚園の頃から、集団行動が苦手、こだわりが強い、型にはまるのが嫌、でも目立ちたいという周りからすると非常に痛い人間だったので、周りには迷惑しかかけてなかったと思います。さらに、小学生1年生の時点で既に夏休みに補習に呼ばれるくらいの学力だったので、運動もだめ、工作もだめで、全く何もできない社会不適合者になりました。
ただ、学校の先生や塾の先生に恵まれたこと、家族に恵まれたこと、さらに友人・知人など周りの寛容さ、協力、援助があったおかげで、これまで何とか生きてこれました。ただ、35歳になっても、やはり生きててすいませんの気持ちはずっとあります。
なくてならぬもの
過去も、今も、そして、おそらくこれからも、別に物質的に恵まれたいわけでもないですし、豊かになりたいわけでもありません。経済の低成長からくる不便な生活や各種制限は喜んで受けます。何より、蛇口をひねったら暖かいお湯が出るような生活よりは冷たく手が痛くなるような水で洗い物をするほうが好きなのです。暖かいおしゃれな服で身を包むよりも、最低限の服で身を包み、生きているほうが好きです。こういった一見貧しく見えるところや不便さ、不自由さの中に重心の低い、深い喜びがあることを知らない人が多すぎます。「お前は本当の貧しさを知らないからだ!」と言われればそうなのかもしれませんが、なくてならぬものは多くはないのです。
高い収入や高い地位がほしいわけでもないですし、そもそも向上心もないですし、この世の中で存在している意味が全くわかりません。ただただ、神様が存在をゆるしてくださっているので、愛してくださっていることがわかるので、生きようと思っているだけです。
確かにおられるお方
すべてのものの上におられ、すべてのものの中に満ちておられ、すべてのものを治めておられるお方が、この小さき者に目を留めてくださっていることだけが最大の喜びです。もし、それが、夢遊病者のような、あるいは妄想癖や幻覚幻聴のような錯覚であるならば、僕は相当哀れな人間でしょう。しかし、実際に2021年の日本にいる、今呼吸をしている僕に目を留めてくださって、関心をもって、気にかけてくださってくださっているのがわかるのです。
そのお方が人となり、地上に来られました。馬小屋で飼い葉おけに布に包まって地上にこられたように、この社会不適合者の汚い心の中にも来てくださいます。
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
ルカ2:11-12