頭で食べる
以前、一蘭ラーメンは味だけでなく、頭でも食べさせていると書きました。一蘭のユニーク性は好みに合わせてカスタマイズ可能な独特の豚骨スープと秘伝のタレ、さらに細麺にあると思うのですが、味集中システムにもあります。カウンターの座席ごとに左右がセパレートされており、お客さんは前を向くしかありません。目の前には一蘭ラーメンの歴史やこだわりの説明書きがあり、注文してからラーメンがくるまでは、それとなくそれを読みます。
一蘭ラーメンの知識が頭に入ったところで、ラーメンが登場し、口にするすると、あら不思議、味だけでなく先程読んだストーリーも相まって、非常に美味しく感じるようになるそうです。
カウンター席で食べるお寿司や割烹料理なども同じだと思います。店主が料理を出す時に季節の食材や関連する歴史などを説明してくれます。説明を聞いたあとに口に入れると味覚だけでなく、頭でも楽しむことができるのです。
頭で視聴する
食事だけでなく、ワインも同じだと思います。ソムリエが料理に合う何十年物といったワインを丁寧に説明し、歴史や産地に思いを馳せ香りや味を楽しむのです。絵画や音楽などもそうでしょう。視覚や聴覚だけでなく頭で鑑賞するものでもあります。
僕は若い頃はまだ世に知られていないようなインディーズバンドを見つけては聴いていました。マイナーな雑誌のインタビュー記事などでバンドのルーツを知って共感できるところがあると、もっと応援した気持ちになりました。ただ単に音楽を耳から聞くだけでなく、そのバンドが通ってきたところなどを噛み締めながら聴くとまた聴き方も変わります。
霊で読む
聖書は霊で読む書物です。聖書にはこのように書かれています。
そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
コリントⅠ2:10
時には頭で読むことや心で読むこともあるかもしれませんが、聖書は霊によって読むものです。それは自分の霊ではなく神様が私達にプレゼントとしてくださる御霊によって読むものです。出エジプトしたユダヤ人たちは荒野において、神の超自然的な助けによって岩から出る水を飲み、天から降り注ぐマナを食べました。これらは新約聖書でこのように書かれています。
また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
コリントⅠ10:3-4
つまり、岩から出た水もマナも霊の食物、霊の飲み物だったのです。そしてそれはつまるところ、イエス・キリストと書かれています。イエス・キリストは私は命のパンであるとおっしゃいました。また命の泉があるところとも書かれています。もし、それがほしいなら、僕たちは霊で聖書を読まなければなりません。もちろん、注解書を使った読み方も必要ですが、霊によって読むことが大前提です。
歴史的な書物として読むのではなく、小説として読むのではなく、習慣的に惰性で文字面だけをおうのではなくて、「どうか今日も聖霊によってイエス・キリストご自身から霊の食物と霊の飲物をいただけますように」という気持ちで読むことが重要だと自分に言い聞かせています。