0154_声に出して読みたい聖書

声に出して読みたい日本語という本が数十年前に流行しましたが、僕は聖書を声に出して読む派です。日常の重力に引っ張られているなと感じた時、詩篇あたりの付箋を貼っていた箇所を次々と読んでいくと、引き上げられる気がします。

声に出したいのは、聖書だけでなく、祈りもそうでしょう。心の中で信仰を持って祈れていると思っていても、いざ、声に出して祈ろうとすると、人間的な思いと理性が邪魔をし、疑いがやってくることがあると感じています。

そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
マルコ9:21-24(口語訳)

「もしできるならば」との気持ちがやってきても、全知全能の神にできないことはありません。また、「もし、御心ならば」と控えめに祈りたくなることもありますが、聖書では、「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」とも書かれています。

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
ピリピ4:6-7(口語訳)

コロナ禍は収束の気配どころか、状況は悪化しているように見えますが、今日も神の平安を求めて祈ります。