最近、野菜に対する気持ちに変化が生じました。その理由の一つは、ここ数ヶ月野菜の価格が上がっているからです。キャベツは半玉300円、白菜1/4が100円など、なかなか手が出せない価格になっています。とはいっても、200円くらいのデザートは平気で買うものだから、勝手なものです。
個人的には安くなってほしいですが、野菜は安価ではなく、実はこれくらいが適正価格となれば、農業に従事する方も増えると思いますし、実際にそれだけの価値のある生産物だと思いました。
2つ目の理由は、最近、トマトの栽培を始めたからです。なかなかプチトマトの実がならなくて、やきもきしてみます。購入してから、まだ3週間も経っていないので当然なのですが、根がせっかちだから、早くならないものかなと眺めています。
当然のことですが、いつも購入してる野菜や果物なども必ず生産者の方がおられて、時間をかけて、丹精込めて、育ててくださっています。そして、自分の子供を嫁ぎに出すような気持ちで出荷してくださっているんだと思いました。
白ネギを切る時に、こんな立派なネギを自分は到底育てられないと思いました。農家の方が引き継いできた秘伝の種や肥料や土など素材、最適化された栽培ノウハウや仕込み、害虫対策、そして、忍耐力。高度な情報と技術が必要で全人格的な営みだと感じました。
食卓でご飯を食べる前に、生産から流通、そして作ってくださった方に感謝して頂くようにと教育は受けましたが、ようやく、本当の意味で感謝する知識が身についたような気がしました。
よく野菜売り場で、安心と品質保証とトレーサビリティーのために、「私が作りました!」と生産者の顔が飾られているものがありますが、そういった生産者の顔が見える仕組みは非常に重要だと思いました。
ある程度は夜に光を当てたり、ビニールハウスで温室環境を整えたり、人間のペースで野菜を育てることはできるのかもしれませんが、どれだけ工夫をほどこそうとしても、野菜の成長は自然の速度です。最終的には自然に合わせ、野菜に合わせてやる必要があります。
被造物である人間は創造者の配慮と忍耐と哀れみと恵みによって生かされています。野菜が自然の流れと生産者に従順で、ぐんぐん成長するように被造物である私達も創造者に従順になり、御心通りの作品として成長できることを目指しますが、そのために聖書が与えられています。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
テモテⅡ3:16-17(口語訳)