買ってでもできる試練には限界がある | 主が試練を与える理由

苦労は買ってでもしろ

昨日は「人は御言だけでは変わらない。聖霊の導きによる試練とのセットによって変えられる」と書きました。また、その試練の中にも主は共におられて痛みを負ってくださっているということも書きました。なぜそうなのか?という点に関しては、人はわざわざ自ら自分が行きたくない方向にはいかないからだと思います。

「若いころの苦労は買ってでもしろ」と言いますが、進んで買ってでもできる試練には限界があります。やはり人間です。買ってまではしたくない試練があるのです。愛する者との別れなどは当然です。しかし、主は時にそのようなところを通らされることもあるのです。

御言だけによって聖められると思っていた

さて、僕がなぜ最近このようなことを書いているかというと自分自身がその中にあるからです。今年に入ってから僕はこの御言を与えられていました。

この記事とつながる読みもの

エゼキエル書 36:25-27
わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。

この御言を机の上に張り、毎朝の祈りの時に宣言し暗唱していました。僕はこの御言だけによって聖められると思っていたのです。しかし、実際は非常に痛みの伴う試練もやってきました。その時に僕は「これはどういった意味なのだ?なぜこんな試練がくるのか?自分は何変わることをしたか?」など思いめぐらせました。

人は覆われている

その中でやってきた答えが上述した御言だったのです。主はこの御言を今回与えてくださった試練によって僕を聖め、すべての偶像から清めようとされているとわかったのです。この偶像には僕が全く認知できていなかったものが含まれます。

基本的に人は覆われています。心の目も耳も閉ざされています。ただ聖霊の光が差し込む時に初めて人は自分の弱さ、高慢さ、偶像、悔い改めるべきことを認知し自覚することができます。

詩篇 119:130
み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。

気づくことすらできなかった

僕は本当に愚か者なので、御言と聖霊の導きによる試練がなければ、自分の中にある忌むべきもの、偶像の存在に気づくことすらできなかったのです。試練は続きます。しかし、主が共におられ、勝利させてくださると信じるので、悲しむことなく希望をもって取り組んでいきたいと考えています。

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