1932_押し流されやすい者 | 押し流されるとどうなるのか?愛の章の逆

おし流されてしまう

僕が信仰生活を送る中で心に留めている大切な御言があります。それはこれです。

ヘブル人への手紙 2:1
こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。

信仰によって御言に立ち続ることを選択し続けないと僕は簡単に押し流されてしまうものです。この御言は僕がいかに脆く、弱く、流されやすい者であるかということを自覚させてくれます。流されやすいと自覚するからこそ、御言に留まろうという意識が芽生えます。

愛の章の反対のこと

では、押し流されるとどうなるのでしょうか?僕はイエス様と共に生きる時に共有して頂ける神様の性質がなくなるということだと理解しています。たとえばコリントの愛の章の反対のことが自分の中に起こります。

押し流されると、僕は冷淡で無関心になります。身近な人に対して不寛容になり、すべての人に対して無慈悲になります。人が傷ついたり悲しんでいても自分じゃなくてよかったと思ってしまいます。また、Youtubeで他の教会を見ては嫉むようになります。

信じることすらできなくなる

そして、自分ができるわずかなことを誇るようになります。そして、高ぶり、それが行動に現れ無作法をするようになります。自己中心的になり、自分の利益を求めるようになります。順番を抜かされたとか、電車で座ろうと思っていたのに座れなかったというような本当に些細なことでイライラするようになります。

そして、悪意がなかったとしても自分がされたことに悪意を覚え恨みを抱くようになります。また、神様の真理ではなくこの世の情報や教えに対して喜びを感じるようになります。ついには、「神様はなぜしてくれないですか?」としびれを切らせて信じることすらできなくなってしまいます。

主はわたしを忘れられた

この姿は聖書に描かれています。

イザヤ書 49:14
しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。

きっとクリスチャンであれば、まさか自分自身がこんなことを言うはずがないと思うことでしょう。しかし、御言に立ち続けないならば簡単に押し流されてしまい、ついには、神に対して愚痴を言う者になってしまいます。

大切なことはわたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めることです。これはオプションではなく必須です。そして、これまで以上に一層、かつ強く心に留めることです。

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