1926_この物価高の時代に10%も献金? | 霊的なさらなる高みへ

この物価高の時代に10%も?

なぜ、僕は毎週日曜日に礼拝に行くのでしょうか?またなぜ時間をかけて教会の奉仕をするのでしょうか?なぜ収入の10分の1を神さまに捧げるのでしょうか?さらには、なぜ僕は一見、自分がやりたいと思っていることをあえてせずに祈ったり聖書を読むことで時間を過ごすのでしょうか?

おそらく、クリスチャンじゃない人からしたら異質に見えることでしょう。「週末旅行いけないね!」、「この物価高の時代に10%も?」、「クリスチャンも普通の人と変わらんやん」と色々と意見はあると思います。僕にとってはこれらは本当に些細なことでありどうでもいいことです。

あえて選んでいただいた

その理由は一つです。それは僕が救われたからです。イエス・キリストの十字架の救いは行動を完全に変えるほどのインパクトがありました。それは僕の中で死んでいた霊が生き返ったからです。救われる前のことを少しでも思い出せば、僕は主に救われたことに感謝が溢れます。それはこの御言の通りだからです。

コリント人への第一の手紙 1:27-28
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

僕はこの御言が大好きです。なぜなら僕こそが愚か者であり、弱い者であり、身分の低く軽んじられいるものであり、無きに等しい者だからです。主はあえて僕を選んでくださったのです。

僕は救われる以前、この世界が本当に生きづらくて仕方がありませんでした。この世界は僕がいるべき場所ではなかったのです。しかし、イエス様の愛を知ってからはそうは思わなくなりました。それは、主は目には見えないけれども霊的な実体として僕と確かに共にいてくださることを知ったからです。もう僕は一人ではないことを知ったのです。

まだ完全ではない

確かに僕は以前のようではなくなりました。しかし、当たり前ですがまだ完全ではありません。以前のようでなくなるだけではまだ不十分です。だから、昔を回顧してマシになったと安心するのではなく、聖書に書かれているとおり、イエス様を見上げつつ、栄光から栄光へを主と同じ姿に変えられたいと願っています。

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