清められる必要
最近教えられていることは、自分が清められる必要があるということです。清められることに関してはこのような多くの御言があります。
テサロニケ人への第一の手紙 4:3
神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、
ヘブル人への手紙 12:14
すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。
信仰の領域で確かに起こったこと
ここで疑問に思う人がいるかもしれません。それは「キリストの十字架によって既に罪が赦され、清められたのに、何をまだ求める必要があるのか?」という疑問です。救われた時に救いと清めが完成したと思っている人がいるかもしれません。
上記疑問は半分合っていますが、半分間違っていると思います。確かにキリストの十字架は完成しています。だから信仰によってそれを受け取る時、確かに罪は赦され、清められるのです。それは信仰の領域で確かに起こったことです。
信仰によって受け入れ自分の生活に適用
そこからしなければならないのは信仰によってそれを受け入れ自分の生活に適用する行動です。その行動は決して律法主義ではありません。なぜなら、それは聖霊の働きだからです。聖霊によって清められたいという願い、さらにそのために行動を起すことは人間側の役割です。
なぜなら、救われてもなお、清められないといけない性質は山ほどあるからです。自己中心的な考え、自分さえよければいい、無関心でいたい、その他、あらゆる悪癖、執着、所有欲などから清められる必要があります。
主がしてくださること
清められたいと祈る中で与えられた御言があります。この御言は力強く僕の内側に強く働きました。この御言を書き出して祈りの部屋に張り出しています。僕がこの御言を握り続ける限り、主がそれをしてくださると信じています。
エゼキエル書 36:25-27
わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
注目すべき言葉があります。それは聖書の言は守らないといけないものではなくて、主の霊が人のうちに働いて「わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる」ものであるということです。つまり主がしてくださることなのです。僕はこの与えられた御言と主に期待しています。













